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カテゴリー「昔の話」の記事

2014.01.31

カリフォルニア・シャワーの頃

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先日、小さなライブハウスでライブなんぞを聴いていて、ふと昔のことを思い出して某所に書いた文章。
わりと評判よかったので、こちらにも残しておきましょう。


渡辺貞夫「カリフォルニア・シャワー」。言わずと知れた名盤。

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2012.10.09

トルヴェール・クヮルテット第1回

昨夜、トルヴェール・クヮルテットの25周年コンサートの記事を書いていて思い出したこと。
5年前の20周年コンサートの時に、1991年のトルヴェールの第2回コンサートから2004年までの歴代のチラシ画像を記事にしているのだけれど(こちら)、1989年のデビューリサイタルのそれは残念ながら手元に残っていない。
しかし、プログラムは残っているような気がして、探してみたら見つかった。

19890114

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2009.07.24

恩師とバリトンサックス

オランダのアムステルダム在住で、笙とサクソフォンの奏者&作曲家として活躍中のS藤さんが一時帰国、バリトンサックスを借りに我が家に現れた。
26日朝の練習で使う予定のバリトンを、このタイミングで貸し出すというのもなかなか大変だけど、ほかならぬS藤さんの頼み、しかも私たちの共通の恩師、N澤先生の退官祝いの席での演奏に使うとあらば、これはもう喜んで、ってところ。

N澤先生は、私が中学校に入った時の音楽の先生で、吹奏楽部の顧問だった方だ。
たしかその時点で、新卒採用2年めくらいだったと思う。(それから35年経って定年退職だったら、ほぼ計算が合う)
どんなふうに「恩師」かというと、2年生になってから何も分からぬまま吹奏楽部に途中入部した私に、「じゃあ、君は、テナーサックスをやってくれ」と言った方である。
それで私は今、サクソフォンを吹いているのである。
これを「恩師」と呼ばずして何と呼ぼうぞ。

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2007.08.14

夏の思い出

というタイトルで、こんな文章を、5年前のちょうど今頃の季節に書いたことがある。
というか、もう5年も経ってしまったのか、ということが、ちょっと驚き。

http://homepage1.nifty.com/thunder-sax/diary208.htm

この文中の「K高」というのは勿論、今現在教えに通っているK高のことではありません。
自分自身の、「吹奏楽コンクール」、あるいは「吹奏楽」そのものに対するアンビバレントな心境の根源は、どうもこのあたりの記憶や体験にあるような気がする。

もし「K高」に行っていたら、どうなっていたかな。
人生には様々な局面で「もしも、あのとき…」という瞬間があるけれど、これはそんな中でも最も早い時期の、最も大きなものとなるような気がする。…

今となっては、D高に行って良かったと思う。
D高はきわめて刺激の少ない平穏な学校で、強制されること(やらなければならないこと)も何もなかったから、何をすべきかを自分で見つけなければならなかった。周りに比較すべきものがなかったから、自分自身を掘り下げるしかなかった。
そういったことごとがあまりにも遠回りであることに、当時は途方に暮れたものだったけれど、遠回りしている間に見ることのできたさまざまな風景は、間違いなく現在の自分の糧になっている。

ずっと後になって、とある音楽界の大先達の方にお会いしてお話をした時に、
「悔いの多い青春を送りなさい」
と言われて、なんのことだか分からず面食らったことがあった。
だけど言わんとするところは、今こそ、よく分かる。

2007.08.08

20年前の志賀高原

はじめて夏の志賀高原を訪れたのは、ちょうど20年前、1987年の夏のこと。
これまでのエントリ等でも何度か言及しているように、セルマージャパン主催のサクソフォン・キャンプに参加するためだった。

このときは、ちょうどキャンプ開始の前日に、翌年(1988年)夏の開催が決定していた「ワールド・サクソフォン・コングレス」の予行を兼ねて、川崎市の麻生市民館で日本サクソフォーン協会のサクソフォン・フェスティバルが執り行われていた。
このフェスティバルと翌日からのキャンプは、続けて両方とも参加する先生方や受講生が相当数(私自身も含め)いたので、夜9時のフェスティバル終演後、麻生から志賀高原に向けて夜行の貸切バスが走ったのだった。

バスの中では私は、当時カワイの講師だった旧知の円田先生と隣席同士で、深夜までずーーっとサックスの話ばかりしていたのを思い出す。
日本とフランスのサックスの音の違い。同じフランスでも、デファイエとロンデックスでは何が違うか。アンサンブルというものの考え方。私が持ってきたいくつかの海外のサクソフォン奏者や四重奏団のカセットテープを一緒に聴いてあーだこーだ言い合ったり、非常にプリミティヴでかつ実践的な話題の数々だった。
当時は今と違い、とにかく「生の」情報が少ない時代だったから(今のように、フランス帰りの若いプレイヤーがゴロゴロいる、などという状況は想像すらできなかった)、円田先生のような百戦錬磨のベテランの方の話というのは本当に貴重で興味深く、何時間喋っていても飽きることはなかった。
当時、私は25歳、円田先生は(おそらく)39歳。
あの貫祿のあった当時の円田先生だけど、今の自分より若かったんだ。…

志賀高原に到着したのは、明け方の午前4時。
結局、ほぼ一睡もせずに喋り続けていたような気がする。
そして、その日の午後から、怒濤のようなキャンプのカリキュラムが始まったのだった。…

私にとって、「師匠」と呼べる人物には、そのキャンプで出会った。
それまでにも、またその後も、何人かの先生方にレッスンを受けたり、お世話になってきたけれど、じゃあアンタは実際のところ誰の門下なんだ、と聞かれたら、迷わずその先生の名前を挙げる。
現在はヤマハを吹いておられる方だが、当時はバリバリのセルマー使いだった。
…そもそも、80年代の当時、国産の楽器を吹いている第一線のプロという方は皆無に等しかったのだが。

3日めの夜(最終夜)は、毎年恒例のことなのだが、セルマーキャンプの主(ヌシ)ことI沢さんの号令一下、部屋別対抗演芸大会(笑)というのが催される。
この年、なぜか私の部屋は、グランプリを受賞(笑)。
相部屋のメンバーには、当時昭和音大の1年生だったO森Y基くんも居た。座布団を使った一発芸の連続、というくだらない出し物で、I沢さんも「これがなんでグランプリなんだー」、と半分呆れていたけれど(^^;。
賞品に、小型の機械式メトロノーム(ウィットナーのスーパーミニ)を貰った。これは今でも使い続けている。


レッスンも受講生発表会もすべて終わった最終日の午前、全員で高原の中をハイキングに出た。
皆でリフトに乗って、東館山の山頂まで遊びに行ったのだった。
8月1日の写真に写っているリフトが、まさにそれだ。

リフトを降りて、山頂までの上り坂を、キャンプの最年長の講師、御歳77の大御所、阪口新(さかぐち・あらた)先生(日本のクラシカル・サクソフォンの開祖というべき方。こちらのエントリ参照)が、半世紀ぶん以上若い受講生たちの列に混じって、元気に歩いていく。
「阪口先生、大丈夫なんですか?」と別の先生に聞いたところ、
「いやあ、阪やんは僕らよりよっぽど頑丈だから、」とあっさり返されたのだった。


下地啓二野外音楽教室、と題して、下地先生と一緒にみんなで志賀の湿原の中を散歩しつつ、先生のありがたいお話を聞く、という不思議な会があったのは、もしかしたらこの翌年のことだったかもしれない。
足元の草むらで、バッタかイナゴのような虫がぴょーんと跳ねる度に、「おっ、このアタックがいいねぇー。サクソフォンはこういうふうに演奏したいものだねー」などと本気で感心してみせる下地先生に、半ば引きつつ(^^;も、強烈な印象を残したものだ。


20年前の志賀高原でのキャンプ、というと、そんなことばっかりが思い出される。
何の曲のレッスンを受けて、何と言われたか、なんてことのほうが、思い出すことは難しい。
でも、それでいいのだ。音楽というものはレッスンや練習だけで培われるものではなく、そういったさまざまな経験や見聞を含めた、人間性の総体なのだから。
たとえば、高原の山道を若い人たちに混じって元気よく歩く、阪口先生という偉大な人物(逝って既に10年、今の若い人たちにとっては、もはや歴史上の存在でしかないだろう)の後ろ姿を記憶に留めている、ということが、現在の自分自身という人間の幅の一部になっているのだと思う。


先日終わったK高の合宿も、生徒たちにとって、そういうものであってくれるといい。
もしもこの先何年か、あるいは何十年か経って、2007年夏の志賀高原のことを、そんなふうに覚えてくれていたとしたら、嬉しい。

2007.05.22

若かりし頃

今を去ること32年の昔、私が中学校の吹奏楽部に2年から途中入部し、最初に渡された楽器がテナーサクソフォンだった。
友達の付き合いみたいな形で入部したので、そもそもどんな楽器があるのかなんて知りやしない。「じゃあ君は、テナーサックスをやってくれ、」と当時の顧問の先生(現在は、東京都の中吹連理事長という重責を担う方である)に言われて、サクソフォンを始めることとなった。

楽器はその数年前に卒業した先輩の個人所有物だったらしいのだが、どこのメーカーの製品だったのか、全然覚えていない(当時はメーカーなんか気にもしていなかった)。少なくともヤマハやセルマーではなく、ヤナギサワでもなく、クランポンでもなかったのは確か。うぅ、いったい何だったんだろうか。
その楽器、音程が滅茶苦茶で、真ん中のシの音(左人指し指1本)とドの音(中指)が全く同じ音が出たのだった(普通の指使いで音階を吹くと、「♪ドレミファソラシシ~」となった。もしかしたらどこか壊れていたのかもしれない)。チューニングでB♭の音を要求されても出やしないので仕方なく、中指を離す(ド#の指)とB♭ぽい音になるので、それでチューニングを切り抜けて(!)合奏に参加していた。
そんなふうな日々の合奏で、ワタシはいったい何をどう吹いていたのか、もはや全く記憶がない(爆)。

その楽器はいつのまにか持ち主のところに返されて無くなったので、もう1本の備品のニッカンを吹くようになったのだが、それがまたえらく古くてボロボロな楽器だった。音程は前の楽器より多少はマシだったものの、練習中によく、いきなり何かの部品が落下して音が出なくなったりした。
学校の体育館(兼講堂)のステージでの本番の直前に、左手サイドのHigh-Dキーのタンポが取れてどこかに行ってしまい、音が全く出なくなったことがあった。時間がなかったので、咄嗟にステージ脇に下がっていた緞帳(というかカーテン)の下端を引き裂いてトーンホールとキーの間に挟み、なんとか事なきを得た。
演奏中にHigh-Dキーを使うと、それが落下してしまうので、拾って挟み直して演奏を続行した(^^;。

途中入部のため教えてくれる先輩もいなかったので(同学年ではサックスは一人だけだった)、タンギングのやり方すら知らなかった。リコーダーのタンギングの仕方は知っていたけれど、サクソフォンの場合は口の中にマウスピースという巨大な異物があるし、しかも舌で直接リードを叩くということがあまりにもハシタなく感じられたので、舌を使わない発音で1年くらい過ごした気がする。音は「フーフーフー」と喉で切ったり、「ウッウー」と腹で切ったり、16分音符が出てきたら両者を併用して「ウフフフッ」とか、今にして思えばなにげに高度なことをやっていた。

ご承知の方も多いように、管楽器の導入段階でタンギングを使わない発音の訓練をするというのは、実は非常に理に適ったことなのである。舌に頼らずに息の柱を瞬時に立ち上げて音を出す、という点において。
後年、ダブルタンギングがさほど苦もなく出来るようになったというのも(というか私の場合、ダブルタンギングは昔から普通のテクニックとして日常的に使っていたので、いつ出来るようになったという認識がない)、もしかしたらこの、サックス吹き始め当初1年間の基礎訓練のゆえ、ということなのか。

全く、人生何がどこで幸いするか分からないもんだ。