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2012.12.06

【長文・追記】ユージン・ルソー トーク&コンサート(12月4日)詳報

20121204ユージン・ルソー トーク&ミニコンサート(ヤマハ銀座 コンサートサロン)

ハイデン/ディヴァージョン
Talk(1) サクソフォン人生のこと~新しいサクソフォンを目指して・ヤマハとの出会い
カーマイケル/スターダスト
(休憩)
Talk(2) 世界の偉大な音楽家との出会い~若きサクソフォン演奏家へのメッセージ
ガーシュウィン/「ポギーとベス」より
 Eugene Rousseau(Sax)
 松浦真沙(Pf)
 通訳:佐藤渉

当日のブログ記事で急ぎご報告した、ユージン・ルソー氏のスペシャルイヴェントの詳細です。
【12月7日追記】 当初書きかけの状態でアップしたのですが、とりあえず最後まで書き足しました。長くてすいません。

銀座ヤマハの6階、百席ほどのサロンは超満員。すばらしく「濃い」客層。
ぎりぎりに到着したので最前列に座る。同じ列には雲井さん、北山先生(静岡大学)、石渡先生が並ぶ。

ルソー氏登場。大拍手。
御歳80(1932年8月生まれ)。ぴんと伸びた背筋も、歩き方も、とても年齢が信じられない。
1曲めは難曲「ディヴァージョン」。
少し緊張しているふうだったが、恐ろしいことにあの軽やかな音色も、テクニックも、コントロールも、全く衰えがない!
カデンツァから最後の音のフラジオもばっちり決めて終演。

ヤマハの開発Gの内海氏の司会、雲カルの佐藤さんの通訳により、トークセッション開始。
プロジェクターでスライド(ルソー氏の自伝から引用の写真など)を投影しつつ進行。
イリノイ州ブルーアイランドの、幼少時に住んでいた家(1942)、高校生の頃(1949)、ルソートリオ(ダンスバンド、1953)、パリにてマルセル・ミュールと(1961)、など。
以下「」内はルソー氏の発言。
例によって聴きながらのメモ書きに基づく構成なので、正確さについてはご容赦を。

《サクソフォンと人生》
「7~8歳の時、近所の男の子がサクソフォンを練習しているのをよく聞き、自分もやってみたくなって親にねだったら買ってくれた。9歳の時だった」
「その男の子のサックスは金色だったが、私の楽器は銀色で、最初ショックだった(笑)」
「とくに誰かに習っていた訳ではなかったが、高校生になったら学校にトロンボーンの先生がいて、その先生に音楽の基礎を習った」
「その先生に『この楽譜を買いなさい』と言われて渡されたリストを持って、シカゴの大きな楽器店に行った。リストの中にはイベールの『コンチェルティーノ・ダ・カメラ』があって、店員に『本当に君が吹くのか?』と訝しがられた(笑)」
「イベールのその曲は知らなかったので、店員さんに聞いてマルセル・ミュール演奏の78回転のレコード(SP)を買った。それがミュールとの出会いだった」
「この人に習いたい!と熱望したが、28歳でフルブライト奨学金を得てその夢が叶った。それはまさに人生を変える転機だった」

《ヤマハとの出会い》
「パリにいた頃、ルブラン(Leblanc)の本社でよく練習をした。そこで近所に住む老音響学者(名前聞きとれず)に出会い、その人といろいろな話や質問をして音響学に親しんだ」
「のちにルブランの社長に、懇意にしているというヤマハの川上社長(当時)を紹介された。新しいサクソフォンを開発するために、アドバイスができる優れた演奏家を探していたとのことだった。そこでヤマハとの繋がりができた」
「日本に行って、当時のモデルのYAS-61を試奏した。良い楽器だったが、まだ改善すべき点はあった」
スライドにて、試奏をするルソー氏の写真。傍らには阪口新先生の姿も。
「ヤマハには素晴らしい設備と、情熱を持った優れたスタッフがいた。平舘さんとか」(客席後方の平舘氏、立ちあがって挨拶)
「最初に浜松(ヤマハ本社)に2週間詰めて、すべての設計要件を洗い出した。その後5年をかけて開発したのが、YAS-62だった」
スライドにて、ぎっしりと書き込まれた設計室の黒板や、手書きの設計図面、音程チャートなどの写真。
雲井氏、石渡氏、(故)前澤氏など、ヤマハで開発に関わった日本人プレイヤーの若き日の写真も。
日本語で「しっぱいはせいこうのもと」
最前列にいた雲井氏と石渡氏、コメントを振られて、立ちあがって当時の思い出話などを少々。

司会の内海氏より、ルソー氏の言う良い楽器とは、音程-エア-アンブシュア、この3本の柱のバランスを崩さない楽器だ、との補足説明。
ルソー氏は、音程とは単なる音高ではなく、pitch-tuning-intonation、という3つの概念の複合で捉えているようである。
そのへんの話も詳しく聞きたかったが、これを突っ込み始めたらきっと時間が幾らあっても足りないのだろう。

演奏。カラオケ伴奏で「スターダスト」。
この曲では、楽器はYAS62を使用。(他の曲ではYAS875及びYSS875)
緊張もすっかり解けて、魅惑にみちた自在な演奏。

休憩後トーク
《ルソー氏が出会った世界の音楽家たち》
マルセル・ミュール
日本語で「いつも、たいへんしんせつ」
「28歳でパリに行き、月に2回のレッスンをミュールの自宅で受けた。素晴らしい体験だった」
「最初のレッスンでやった曲は、トマジのコンチェルトだった」
「アメリカに帰ってからも何度も手紙を書いたが、そのたびに必ず返事をくれた。家にはミュールからの手紙がこんなに(手で示す)積み上がっている。晩年、字を書くことが厳しくなった後も、息子の口述筆記によって返事を書いてくれた。素晴らしい人間性だった」

ポール・クレストン
「とあるコンサートで出会ったのが最初だった。『良い演奏だった』と言ってくれた。(『ソナタ』の)第2楽章を楽譜の指定よりゆっくり吹いてしまったことを謝ったが、『それでいい、楽譜の指示はちょっと速過ぎる』と言っていた」
「二度めに会ったのはノースウェスタン大学でのコングレスだった。『Practice!』と言われた(笑)」
「彼はイタリアからの移民で、本名をジュゼッペ・グットヴェッジョという。両親は彼に、イタリア語を使わず、英語を使うよう教育したのだろう。若い頃の作品である『ソナタ』や『コンチェルト』は楽譜上の指示が英語で書かれているが、後年の『組曲』ではイタリア語で書かれている。そのことについて尋ねたら、彼は『私も成長したんだ』、と言っていた」

バーナード・ハイデン
「good friendであり、インディアナ大学の同僚だった」
「ドイツの出身だが、ユダヤ人だったため(ナチスの)ドイツに居られなくなり、デトロイトに移住した。そこでラリー・ティール(サクソフォン奏者)に出会った。彼の『ソナタ』は、ティールに献呈されている」
「彼はヒンデミットの弟子で、ヒンデミットは大変厳しい先生だった」と言って、ヒンデミットがデトロイトを訪れてハイデンの作品のスコアを検分したときの、ガチガチに緊張したハイデンの様子をユーモアたっぷりに描写。
「ハイデンは『ソナタ』の楽譜を2部浄書した。当時はコピーなどというものは無かったので手で書くしかなかった。うち1部はティールが受け取り、もう1部を私にくれた。光栄なことだった」

カレル・フーサ
「(ルソー氏の)妻がチェコ語を話すので、それがきっかけで交友が生まれた。彼の作品にはチェコの雰囲気が溢れている」
「フーサの指揮で彼の『コンチェルト』を演奏したこともある」
(どんな感じでしたか、と聞かれ)「『Follow me!』」と言って胸をドンと叩く。
「もうひとつ、ご存じ『エレジーとロンド』という傑作もある。『エレジー』は元々独立したピアノ曲で、それをサクソフォン用に改作したものだ」

ここで質問コーナー。
私が、ドイツ・グラモフォンのコンチェルト集のレコードの制作経緯について聞こうと手を挙げたら、kuri君も手を挙げ、佐藤さんに“うわっ、濃い顔ぶれ”と言われた(笑)
kuri君はJ.フェルドについて質問。
「妻がチェコに帰ったときのお土産の中に、フェルドの作品集のLPがあって(Do you know LP? と言って笑う)、それを聴いて関心を持った」
「最初に書いてくれたのは『コンチェルト』だった。他にもたくさんの作品がある」
「フルートのための作品でも有名だ。ランパルやジェームズ・ゴールウェイのためにも作品を書いている」

私が質問させていただいた「ドイツ・グラモフォンのコンチェルト集」というのは、私の本家サイトのルソー氏のページにも書いた名盤のこと。
1980年代以前には、同種の録音としては世界でもほとんど唯一のものだった。
「1967~68年にヨーロッパをツアーした。これはプロモーションのためのツアーだったが、そのときにツアーを仕切ったイギリスのエージェントに『是非録音をしたい、レコードを作りたい』と要望した」
「エージェントは『たぶん何も起こらないとは思うが』と言って、それでも世界中のレコード会社に手紙を書いてくれた」
「そうしたら、ある日ドイツ・グラモフォンから『一緒に協奏曲集のレコードを作らないか』というオファーが来た」
「熟考すべき事柄だったのかもしれないが、私は2秒でYesの返事をした(笑)」
「録音は教会で行なわれ、たいへん寒く楽器のピッチを保つのが大変だった。コートを着た内側に楽器を入れて暖めた」
「そういえば録音セッションのとき、指揮者(ポール・ケンツ)とコントラバス奏者の間が険悪になって大変だった。指揮者はコントラバス奏者に、休憩するからその間にさらえと言って指揮台を降りてしまうし、コントラバス奏者は楽器を床に置いてソッポを向いてしまった。録音スタッフ達はいったい何が起こったのかと困惑していた。もっともセッションが終わったら、仲直りして一緒にビールを呑んでいたがね(笑)」

あと、石渡先生が、フーサのコンチェルトに出てくるLowB-Bフラットのトリルについて質問。
ルソー氏は、右手中指にトリルキーの付いた特別な構造の楽器を使ったとのこと。
普通の楽器ならば、左手主鍵列のキーを2本の指で押さえ、テーブルキーを薬指と小指で操作することで可能だと言って、やってみせた。
(家に帰ってやってみたが、これは相当手が大きくないと厳しいと思った)

《若き演奏家へのメッセージ》
「情熱を持って取り組むこと」
「人生はお金を稼ぐには厳しいところだが、人生の目的は自分がどこまで成長できるかを突き詰めることだ、ベストを尽くしなさい」
他にも色々なことを仰っていたような気がするが、言葉よりもそれを言っているルソー先生が目の前にいる、ということのほうに圧倒されていた気がする。

演奏。ガーシュウィン「ポギーとベス」。
ガーシュウィンの音楽の素晴らしさと世界性を、バッハになぞらえた短いスピーチの後に。
もはや何と言ったらいいのか判りません。
アンコールに「ハーレム・ノクターン」。
最後のスーパー・ハイトーン(あれ何の音だったんだ?)決まったーっ!イェーイ!

…終演後はルソー氏に、サインを求めるやら、写真を撮るやらの若い人たちの大行列。
私は件のドイツ・グラモフォンの協奏曲集の、オリジナルのLPを自宅から探し出して持参し、サインを戴いた。

DG_2530209

1979年1月購入。
当時私は、高校2年生だった。
日本語解説のついた国内仕様盤もあったけれど(解説の執筆は大室勇一先生だったはず)、本家サイトの方にも書いたとおり、直輸入盤のほうが僅かに安かったのだ。
たとえ数百円でも、高校生にとっては大金だった。

もしこのレコードが無かったら、間違いなく私は今ここにはいない。
その後30年以上もサクソフォンを吹き続けるエネルギーを貰うことも無かっただろう。
雲井さんに「これでやっと完結だね、」と言われて、なんだか泣けた。
34年近く前に、自分でもよくわからないパッションに衝き動かされ、誰が受け取ってくれるとも判らぬまま闇雲に空に向かって投げたものが、いま自分のところに還ってきた、と思った。

ユージン・ルソー先生、ありがとうございます。

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