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2012.08.22

ドビュッシー150歳

本日8月22日は、ドビュッシー(1862-1918)の誕生日。
そう、150歳である。
50年後の生誕200年にはおそらくもう立ち会えないと思うので、一生のあいだにもそうそうない記念すべき日ということで、急ぎ書いている。

この日に聴くのはやはり、先日SACDで出た、マルティノン指揮フランス国立放送管による「夜想曲」を。

EMI, TOGE12086-9

いまから35年も昔、私にとって、ドビュッシーという人の音楽の本当の美しさと底知れなさを、一番最初に衝撃的に呈示してくれた曲であり演奏である。
その頃はよく、夜、窓を少し開けて(私の勉強部屋は2階だった)、月を見ながら聴いたっけ。

7年前に、当ブログにこの曲について以下のような文章を書いているので、再掲する。


第1曲「雲」、第2曲「祭り」、第3曲「シレーヌ(海の精)」。
高校1年生の冬、たまたまFMでエアチェック(死語)したのが、この演奏だった。
こんな音楽があるのか!と本当にびっくりした。
冒頭の木管による動きからもう、流れゆく雲が明瞭に眼前に浮かんでくる。
クラシックをまともに聴き始めて2~3年め、クラシックには様々な情景を描写した音楽が色々あることは既に知っていたが(ベートーヴェンの『田園』の第1楽章が、「いなかに着いた時の楽しい気分」であるとかね。あと『シェエラザード』の1曲めの海の描写とか)、そういう類のものとは一線を画す、何か本質的な違いのようなものを嗅ぎとったのだった。
こんなふうに、音楽そのものが「雲」や「祭り」や夜の海を呼吸している、というものは、聴いたことがなかった。

輝かしいファンファーレで始まる「祭り」は、最後だんだんに消え入って、けだるい倦怠と輝かしさの遠い余韻の中、ピアニシモのシンバルの一打と弦のピツィカート(+ティンパニ)、というなんとも印象的な組み合わせで、ふっと終わってしまう。
「祭りのあと」、という言葉を思った。
祭りというものの本質を貫き通して、向こう側まで到達してしまうような、ドビュッシーという人物の底知れない感性の鋭さに震えた。

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