音楽と祈りについて…大森さんのCD
今日は「あれ」からちょうど2ヶ月。
「あれ」の前後では、時間の進み方が何か根本から変わってしまったように思える。
そんな日には、このCDについて書いてみようと思う。
ナイチンゲールとバラ(Meister Music MM2083)
大森義基(Sax)
今年の年明けくらいに出た、サクソフォン奏者大森義基さんの最新アルバム。
これはとんでもないCDだ。勿論誉め言葉。
ほぼ最初から最後まで、「祈り」だけで出来ている。
つい2ヶ月前までの、喧騒と軽佻浮薄の世の中だったらこれはほとんど、異質なまでに世のそういう風潮に背を向けた雰囲気に思えたかもしれないけれど、3・11以降の不安と停滞の時代にあっては、これこそがまさに音楽に求められているものだと感じる。
1曲めがフォーレの「ピエ・イエス」。
フォーレの「レクイエム」の第4曲、ソプラノ、もしくはボーイソプラノ独唱で歌われる、この「レクイエム」全体の中で最も有名な、しかし最も簡素な曲だ。
ちなみに原曲の歌詞は、たったこれだけ。
Pie Jesu, Domine,
dona eis requiem,
sempiternam requiem.
やさしきイエス、主よ、
かれらに休息を与えたまえ、
永遠の休息を。(金澤正剛訳)
これを何度も繰り返す。
「sempiternam」という言葉がキーになっている(カトリック典礼文の中にもあんまり出てこない単語である)。
ね、「祈り」でしょ。純粋混じりっ気なし100%の「祈り」。
CDの冒頭にこの曲を置くことによって、アルバム全体のコンセプトを鮮やかに射抜いている。
まるで大森さんは、震災後のこの状況を予感でもしていて、救いを呈示するためにこのCDを出したのではないか、と思ってしまったほど。
全曲ソプラノサクソフォン独奏。
サクソフォンという楽器属の中でソプラノだけが持っている、ある種の禁欲的な性格と「時を超える」感覚をここで用いるのは必然だった。
バックがピアノではなく、ハープとマリンバというのも意表をついている。
マリンバと言っても、打楽器的に使われる場面はほとんどなく、トレモロで簡素なオルガンのような和音の伸ばしや、ピアニシモの弦楽器群のような茫洋とした響きを得るために専ら使われる(アクセントの場面では、ハープの高弦の「ピーン」という音がむしろ印象的)。
勿論、決して窮屈な辛気臭いアルバムではありませんよ。
聴いて耳に残るのは、繊細さよりもむしろおおらかな感情だ。
個々の作品についてこと細かに論じることは、それほど重要でないようにも思う。
大森さんはたしか宗貞啓二氏の最新アルバムもプロデュースしていたと記憶するけれど、それもやはり「祈り」というものを色濃く感じさせる内容だった。
それは大森さんという人の根本的な音楽性なのだろう。
そういえば大森さんのデビューアルバムの「ヴァカンス」(最近新装再発売された)も、個々の曲目よりも、全体として、避暑地の夏休みの最後の1日のような、楽しさと懐かしさとせつなさの入り混じった感覚を1枚のCDに封じ込めるかのような意図が感じられたものだった。
「作品」や「演奏」を聴かせるのではなく、「音楽」を奏でること。
その「音楽」が、演奏者や聴く人の「祈り」と、シームレスに一つになること。
大森さんは、私たちがいたってしばしば陥る、音楽を奏でているつもりで、実は「作品」を演奏しているに過ぎない、という事態をいかに避けるか、ということに関する、謙虚な洞察者なのであろうと思う。
そのような「洞察者」とは、「音楽家」、という言葉とほとんど同義である。
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