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2010.10.21

フレデリック・ヘムケと国立音大アンサンブル

Program_20101018月曜日(18日)のこと。
会社を退けてから、国立音楽大学のサクソフォンアンサンブル演奏会を聴きに、府中へと急ぐ。

おりから来日中のサクソフォンの世界的巨匠、フレデリック・ヘムケがゲスト出演されるということで、前々から話題になっていた。
私も知り合いの在校生の女の子を通じて早々にチケットを入手していたものの、いろいろあって仕事を休むことができず、6時半という開演時刻に会場の府中の森芸術劇場に居るのは絶対不可能な状況だった。
結局着いたときは開演後1時間も経っており、やべぇ~と焦っていたものの、ヘムケの出番にはなんとか間に合った(件の在校生の子の出番は聴けなかった。ごめんなさい)。

演奏会第3部の開始と共に、ほぼ満員の客席の喝采の中、ヘムケと、オルガニストが舞台に登場。
オルガニストは壇上のオルガン台へ。
曲目は、伝承曲「シンプル・ギフト」(コープランドが「アパラチアの春」の中で使った、クエーカー教徒の間に伝わるメロディ)と、フェルコ(Frank Ferko)作曲「星雲」。
どちらも、以前にご紹介したこともあるヘムケのオルガンとの共演のCD「Simple Gifts」からのナンバー。
会場そのものが楽器である大オルガンのサウンドとの共演は、CDで鳴るのとは全然違うインパクトと振幅の幅がある。
息を呑みつつ聴く。

生で聴くヘムケの音は、CDの艶やかで気高い音色に加えて、もっと暖かく優しい。
師マルセル・ミュールの音を受け継ぎながら、決してそれだけではない。
こういう音を私はむかし聴いたことがある。しかもいたって「普通」に。サックスじゃなかったかもしれない。この懐かしさはいったい何なんだろうか。

アンコールに、意表を突いて「赤とんぼ」。
すべての雑念から解放されたような、ひたすらに自由な「音楽」だった。

学生たちの演奏もとても良かった。
狹間さんの委嘱作(ジャズやラテンのテイストを備えた楽しくも軽やかな作品だった)と、リゲティの「6つのバガデル」しか聴けなかったのが残念。
昨年の演奏会も聴きに行って(こちらに記録あり)とても感銘を受けた記憶があったので、勿論半端な演奏にはなりようがないという予測はついていたけれど、それにしてもこれらのスペシャルな雰囲気は昨年以上に格別なものがあったと思う。
今回初めて国立音大のアンサンブルを聴いたという、私の顔見知りのアマチュアの方々も、異口同音に同じことを言っていたことが印象的だった。
「ヘムケ効果」、などという安直な言い回しはあまりしたくないけれど。

最後のサクソフォン・オーケストラ・ステージは、「アイリッシュフェアリー組曲」と題する、サクソフォニーの柏原さんの手になるオリジナル作品。
ケルト音楽を題材にはしているものの、単純な作曲とも編曲とも違う、世界の民俗音楽を縦断するかのような趣をも持つ、きわめて創造的な再構成だった。
国立音大のラージアンサンブルならではの、ただやかましいだけのサクソフォン・オーケストラとは対極にある有機的なサウンドと、自在さと脱力の加減が素晴らしい下地さんの指揮が相まって、聴き応えある音楽だったと思う。

終演してロビーに出ると、そこにヘムケがいた。
雲井さんが並んで立って、通りがかる方々と挨拶を交わされていた。
とても陽気でにこやかな、しかし電磁波のような存在感を放つ長身のヘムケ師の傍らで、雲井さんのいつもの、飄々とした喋り口調というものは消えて、はにかんだような笑顔のままあまり口も開かず、そこに立っていた。

photo, Fred and Masato

このシャイネスがおそらく、雲井さんの本来の姿なのかもしれない。
あまりに偉大な師と同席すると、結局のところ自分は、矮小だった頃の生徒の姿に戻ってしまうように。
というわけで、私自身もそうなりました。
せっかく目の前数メートルにヘムケ本人が居るのだから、何か一言でも話しかけれてみれば良いだろうに、ただの一言の英語も出てこなかった…

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