ギャルド初来日の頃(超長文)
以前のエントリの続きです(2ヶ月も経ってしまった)。
とても長いエントリとなるので、この連休にやっと手をつけることができた。
DVD発売されたギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の1984年の来日公演については、以前のエントリで書いているので(上のリンク先)、今回は同時にCD復刻された1961年の初来日公演の話。
私は昔、1984年の公演を聴いた頃、その23年前の初来日を聴いている斯界の先輩たちが(直接面識のある方もそうでない方も)、口を揃えて「現在のギャルド」を貶しまくっていたことをよく覚えている。
ギャルドは変わってしまった、これは昔のギャルドではない、手抜きだ、観光気分で日本に来ている、etc.。
表向きは勿論、新聞にも雑誌にも、当たり障りのない好意的な評が出ていたけれど。
で、私はというと、当時は純真な(?)22歳、現在のような毎日のようにコンサートを聴き歩くようなこともまだなく、海外のオーケストラを生で聴いたこともそんなにはなく、特にフランスの団体はこのときのギャルドが初めてで、それなりに感動していたものだから、先達たちの遠慮のない意見にはちょっと違和感を持っていたのだ。
それって、単なるノスタルジーじゃないの?と。
70年代に入ってから就任したブートリー現楽長(当時)の考えにより、ギャルドの編成やレパートリーに大改革が加えられ、サウンドが以前とすっかり変わってしまったことは知識としては知っていたし、それを「伝統の断絶だ」、と言って憤る人が多い、ということも知ってはいた。
だけど、そのようなことはどの世界にも多かれ少なかれあることだし、そもそも「伝統」というものの本質は、古いものをそのまま残すことではなく、「一見すべてが変わってしまったように見えたとしても、なお残っているもの」の中にあると私は考えていたので(勿論、今でもそう思っている)、年上の方々の「昔は良かった」的発言は注意して聞くようにしていたものだ。
まあ、大凡そのような考えに基づいて、ワタシゃ今まで、現代の内外のオーケストラや演奏家のコンサートを聴き歩いたり、古い録音を聴いたり、マルセル・ミュールに代表される過去の名手やその記録を調べたり、ということを続けていた訳です。
そんななか現れた、この1961年のギャルド来日公演のNHKによるライブ録音。
なんと、正真正銘のステレオである。
当時はまだFMステレオ放送なんてものは無かったので、NHKのラジオ第一放送と第二放送(AM)を両方使った試験的なステレオ放送(ラジオ受信機を2台並べて聞くことになる)のために残っていた録音からの復刻である。
これにはホント、心底驚いた。
まるでつい先日録ったような、あまりにもリアルな音。しかも紛れもない「東京文化会館の音」、がする。
しかも聞こえてくるのは、21世紀の現代、もはや現実には聴くことはできない、ちょっと個性的過ぎるところはあるけれどこのうえなく明るく輝かしい、煌くような「1960年代のフランスのオーケストラの響き」そのものである。
いかにも金属が薄くてベルがめくり上がりそうなトランペット、リードの音のビービー混ざるオーボエやコーラングレ、派手にヴィブラートのかかる甲高いホルンやフルート。
半世紀近い時の経過の壁を軽々と越えて、一直線に現代に「音」が届けられる。
…そりゃそうだ。
こんなものを、48年前の当時、現実に聴いてしまったら、それはもう一生逃れられない強烈な印象と記憶として残るに決まっている。
この演奏の洗礼を受けて20数年が経った後、同じ「ギャルド」と称する(編成や音色のすっかり変わってしまった)団体がやって来て、あの大味な「トッカータとフーガ」なんかを聞かされたりした日には、そりゃ文句の一つや二つや三つは言いたくもなるだろう、とはじめて納得したのだった。
いやはや。
NHKさん、こんなにすごい(しかも状態の極めてよい)音源抱えているんだったら、出し惜しみしないでどんどん出してくださいよ。
これは超一級の音楽社会史的資料であり、「歴史の証言」だと言っていい。
48年は待たせ過ぎだ。
これをもう一度聴きたい、と願っていながら、果たせず亡くなられてしまった方だって、いっぱいいたに違いない。
私の手許に、1962年(昭和37年)1月号という、古いバンドジャーナルがある。
先日ネタにした復刻版ではなく、実際に47年前当時のそのものである(以前のエントリにも書いたけれど、昔一緒に吹いていた30歳くらい年上の先輩の方に戴いた)。
発売されたのは前年の12月と思われるので、ギャルド初来日のまさに直後、「ギャルド来日」という特集が組まれている。
(なお、もうひとつの特集が「コンクール報告-全日本/各支部」というもので、これはこれでそういう方面に興味がおありの方には興味深いものと思われるが、それはさておき。)
復刻されたCDで聴く1961年当時の音が、強烈なリアリティを持って感じられた原因のひとつが、この古いBJの存在である。
これらを読みながら、今、復刻された音を聴いていると、まさに自分がその時代にタイムスリップして、当時の人々と驚きを共にしているかのような気分になる。
つい1ヶ月前に東京文化会館の客席で耳にしたばかりの、この世ならぬ絶美の音響をまざまざと思い出しながら、発売されたばかりの雑誌のページを繰って感動を新たにしているかのような、不思議な感覚。
当誌3ページの口絵写真。
東京文化会館(この年の6月に開場したばかり)、群馬音楽センターの見た目は、ほぼ現在と同じだ。
中央のサクソフォン四重奏は、(後に引用する秋山先生の文中にもある)ソニー本社での演奏にてアンドレ・ブーン隊員が急遽ピンチヒッターでソプラノを吹いた、という時のもの。
曲目はコレルリのセレナード、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム、アルベニスのセビリヤの3曲だった由。
この特集への寄稿は以下の通り。()内は寄稿者の当時の肩書。
あこがれの名ギャルド 伊藤隆一(元陸軍軍楽隊隊長)
ギャルドのなまの音 飯塚経世(音楽評論家)
苦悶する吹奏楽 小川原久雄(阪急少年音楽隊副隊長)
感じたことなど 大石清
ギャルドあれこれ 秋山紀夫
ギャルドと私の日記 柚木信也(肩書なし。一般の音楽愛好家の方と思われる)
ギャルドから学んだもの 大室勇一(東京芸大音楽学部器楽科三年サックス専攻)←これすごいでしょ。
ギャルドをきいて 堀江勝昭(東京都立第一商業高等学校二年)
ギャルドの印象 宮島清勝(都立一商二年)
雲の上の音 山崎愛子(大宮市桜期中学校三年)←ママ(桜木中学のことか)
大石、秋山両氏はバンドジャーナルの編集者という立場でもあるので、肩書は載っていない。
専門誌上に高校生や中学生にまで原稿を書かせちゃうところが、48年前当時の「吹奏楽」の社会的なありようを垣間見させて興味深いけれど、それはともかく、「ギャルド」を(世界レベルの「一流」を)はじめて耳にした新鮮でイノセントな驚きと感激とが、それぞれの行間からもリアルに感じとれる。
長くなるけれど、これらの中から、(当時30代前半の)若き日の秋山紀夫先生が書かれた「ギャルドあれこれ」という文章を、以下に転載してみる。
1961年のギャルド初来日のリアルタイムかつ総括的なレポートとして、また当時のギャルドの編成その他についての詳細な覚書として、とても貴重な資料であることは間違いない。
それにしても秋山先生の観察眼と客観的な見識には、21世紀の現代の視点で読んでも実に驚嘆させられるものがあって、ご存命中の方が書かれた文章だけに著作権的に問題があることは判ってはいるけれど、心ある方には是非お読みいただきたく、敢えて全文引用させていただく次第。
ご本人、または権利者関係の方の申し出があれば、すぐに削除させていただきます。
(明らかな誤植は直しました)
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「ギャルドあれこれ」 秋山紀夫
編成 ギャルドの演奏を決定づけているものは先づ編成である。編成人員は、
ピッコロ1、フルート3、Ebクラリネット2、ソロ・クラリネット2、クラリネット19、オーボー2、イングリッシュ・ホルン1、バズーン2、コントラ・バズーン1、アルト・サクソフォーン3、テナー・サクソフォーン2、バリトン・サクソフォーン2(以上木管のみ41)。ビューグル2、トランペット5、ホルン5、アルト1、トロンボーン3、ユーフォニウム4、コントラバス3(金管のみ32)。絃バス3、ハープ、チェレスタ、ピアノ1、打楽器4、計72。
であるが、この編成の第一の特徴はクラリネット・セクションにある。二十一名のクラリネットは二名のソロ・クラリネットと十名と九名の二つのグループに分けられ、十名はオーケストラの第一ヴァイオリンの位置に、九名は第ニヴァイオリンの位置に配置されていた。ソロの二名は中央フルートの後にいてオーケストラのクラと同じ位置で同じ役目を持つように配置されていて、この吹奏楽をオーケストラと同じ機能を持つように考えられ、構成された編成がギャルドの大きな特色をなしていた。したがって他の楽器もすべてオーケストラ的にあつかわれている。トロンボーンが三名と云うのもそのあらわれである。Ebクラリネットはフルートと組んだりクラリネットと組んだりしながら木管の上声部を美事に補強しさすがすばらしい活躍をしていた。
サックス・セクションも美事で、とくにテナーの音色はいままできけなかったすばらしさを持っていた。とくにサックス、バズーン、バス・クラ、それにユーフォニウムの中低音セクションがかたまって出すユニゾンやハーモニーのやわらかい美しさは独特で、クラリネット・セクションの美しい音色と共にギャルドの音色のすばらしさの秘密はこのセクションにあるように思えた。トランペット・セクションもオーケストラ的で、五本のうち四本がC管、一本がD管又はC管の持ちかえで吹き、クラリネットとユニゾンで終始すると云うようないわゆるブラスバンド的ではなく、あく迄もオーケストラの中のトランペットの使い方であった。その代り二本のビューグルがコルネットのように主旋律的にあつかわれ、音色も我々が今まで考えていたような暗いものでなく明るくコルネットのようであった。このビューグルはBb管であった。五本のホルンも全くオーケストラ的に扱われ、一本使われていたアルトがビューグルとユーフォニウムをつなぐ金管の旋律楽器として扱われ、金管の中でもビューグル、アルト、ユーフォニゥム、コントラバスがサクスホルン属の旋律的なセクションを構成し、トランペットとトロンボーンが直線的なするどい金管の音を分担し、数多い木管群に対していた。この金管楽器の取扱い方もギャルド独特なもので、アメリカの様に全金管を一つのかたまりとして見るような扱いはしていなかった。以上の編成上のグループが作り出す音色がギャルドのすばらしい音の秘密のすべてであろう。
楽器 楽器は何と云ってもフランス製が多く、ピッコロは木管、フルートは三本とも銀製であった、クラリネット・セクションは意外なことに楽器メーカーは統一されて居らず、セルマー、クランポン、ルブランの三種が入りまじっていた。ソリストはセルマーを使っていたようである。クラのリードは例外なくバンドレンを使用して居り、かたさは各人自由にえらんでいるようであったが、総じてあまりかためのリードは使っていない。サックスはすべてブヘー、クランポンを使用していた。金管はホルンをのぞいてすべてフランスのクェノン社の製品を用いていた。ホルンだけはドイツのアレキサンダー製でベルの取りはずせるタイプのものであった。アルトが一本用いられるだけで細管のバリトンは用いられず、四本のユーフォニウムはすべて五本又は六本ピストンで低音域迄出せるものであった。トロンボーンもトランペットと用じくC管で、コントラバスはBb管であった。ティンパニーや大太鼓、シンバルは比較的小さめのものを用いたが、とくに大太鼓は小さいながら大変音の良い楽器であった。
技術 全く各人がコンセルバトワールの首席出身者だげあって、誰をとり上げても文句なくすばらしい。とくに印象に残った奏者はフルートのソリスト、ルボン氏、クラリネットのリキシ氏、バスクラのモンターニュ氏等で、ウイリアムテル序曲の「夜明け」のチェロ・パートを奏したバスクラのすばらしさには驚たんさせられた。音色ののびのびとやわらかなこと、低音域から最高音域にわたるむらのない自然なヴイブラート、全くチェロ以上の、と云うよりチェロにはない美しさを出していた。その他やや意外だったことは、アルト・サックスの音がかなりシャープだったことで、人声のようなやわらかい美しさでは日本の坂口新先生の持つ音色が少しも遜色が無いように思えた。オーボーやイングリッシュ・ホルンはすでにいろいろオーケストラの来日で大体想像がついていたが、さすがバスーンや、フレンチホルンの音色は、フランス的な繊細な美しさを持った独特なものであった。とくにホルンの音は細くビブラートのかったもので、この音色はドイツ的な技法や音色を好む人々にむかなかったろうが、フランスのホルンの真髄をきかせてくれた。トロンボーンは細管ではあったが朗々たる音色できかせ、三本でも充分七十名の管に対抗できる力強さを持っていた。サン・サーンスの「英雄行進曲」の中の美しいトロンボーン独奏には多くの拍手がおくられていた。トランペットはC管のためやわらかいと云う感じより、やや細くするという感じであったが、決してうるさいと云う吹き方ではなかった。ユーフォニウムは実によくバスーンやサックスにとけ合い、地味ではあったが中音のやわらかさを助けていたし、コントラバスはひかえ目に実にうまく合奏にとけこみ、模範的なバスの吹き方をはじめてきかせた。その他打楽器では小太鼓がボレロであの長い独奏をすばらしいスタミナとクレッシェンドでたたき上げた力の配分の見事さも立派なものであった。
ギャルドのすばらしさはどんなフレーズを吹いても生きいきした表情がついていることと、どんな困難なパッセージも楽々こなしてしまう各個人の技術のすばらしさであり、更にその力を総合して音楽として作り上げるブラン隊長の指揮のすばらしさである。とにかく個人個人がすばらしい技術を持っていることはわかり切った話でありながら、あらためて思い知らされた。この技術はどうして彼らがえたものかときいてみると、第一に十八歳位までは楽器等は習わず、ソルフェージを徹底してやることとの話で、それによって正しい音程感を身につけ、後に楽器を手にしたとき美しい音と、正しい音程を作り出せるのだと云うことであった。何と云っても歌が基礎になり美しいフレーズが作れるのだと云う点も再認識させられた。ギャルドの奏法はいずれもあらゆる点ですぐれているが、中でもすばらしい点はヴィブラートの美しいことで、サクソフォーンのある奏者は「日本人はかなり管の技術があるが、ただヴィブラートのかけ方は知らない」と云っていた。彼れらはヴィブラートの説明はすべて絃楽器の左手のヴィブラートと同じだと云う表現を使い、楽譜[1]のようにその音を中心として上下に平均にかけるべきで、決して[2]のようになってはいけない、という話であった。
今回の演奏をきいても、ギャルドはオーケストラのようだと云う声が多くきかれたが、その秘密の一つは、前にのべた編成とともに、いまのヴィブラートのかけ方からして絃楽器を目標に考えている奏法による点も大きいものと思われる。とに角フランスの管のメンバーは、絃楽器のテクニックを根本に持って管を演奏していることは確かのようであった。その他かるく正確なタンギング、とくにタンホイザー序曲で示されたクラリネットセクションの見事なスタカートで奏する早いスケールのユニゾン等、どれを取ってもすばらしいものであった。
練習 ギャルドの演奏は各個人の技術のすばらしいことにもよるが、一般に知られない点に練習のきびしさがあった。十一月五日、東京での初演奏の日は午後二時少し過ぎには会場の文化会館に到着し、三時から練習をはじめ、聞に十分の休憩をはさんだだけでなんと六時十五分前まではげしい練習がつづけられた。セーター姿のブラン隊長はきびしい態度で当夜のプログラム全曲を一曲づつ念入りに練習したが、とくに隊長が注意した点はフレーズのダイナミックな表現で、ある時は大声ではげしく、あるときは夢見るようにあの美しい音を作り上げて行った。とくにフルートやホルンの出にはかなり度々注意をあたえていた。タンホイザー序曲等をはじめとして、とくにゆっくりした部分を念入りに仕上げ、クラリネットの速いパッセージがユニゾンで動くような部分で、我々がむづかしいと思うような部分はあまりさらわずに通してしまうのは、やはりクラ・セクションの技術に信頼をおいているからであろうしまたスケールのようなパッセージは彼らにとって少しもむづかしいことではないのだろう。むしろフレーズのうけ渡しや独奏楽器のバランス、それに全体のダイナミックに重点をおいているようであった。とに角開演四十五分前まで文字通り火の出るような練習をつづける隊員の音楽的良心には全く頭の下がる思いで、少しでも練習を軽く上げてしまおうと云う日本の専問家に是非この練習を見せたいものであった。個人の技術に加えてのこの合奏練習のきびしさが、あのすばらしいアンサンブルを生み出しているのを見て、今更ながら吹奏楽のようた合奏は、合奏専問の訓練がいかに必要であるかを痛感させられた。ただ集って音が合ってきれいにゆけばそれで音楽ができ上りだと云うような甘い考えでは、芸術はでき上らないと云う教訓でもあった。
ブラン隊長 あの流麗な指揮ぶりのようにすみずみまで神経のゆきとどいた芸術家であると共に、かなりスタイリストでもあった。かなり気むづかしい所もあり、十一月三日の厚生年金会館ホールでの演奏では、風邪をひいていたためもあったが、控室にとじこもりきりで、隊員がステージに並んでからやっと外とうを背にひっかけて(彼のこのスタイルはステージの横でよく見うけた)あらわれ、バスーンやホルンの位置をやかましく直し、かなり御気嫌は悪いようであったが指揮台に現われるときにはにこやかにほほえんでなかなか演出のうまい所も見せていた。棒は大へん流麗で美しいフォームであったが、両手を顔と胸の前あたりで交互に糸をくるように上下にまわす独特な指揮法は印象的であった。はじめはかなり気むづかしいような印象をうけ、五日の文化会館でも演奏終了後報道関係者がステージ写真をとろうとして待っており、隊員も全員ステージに並んだが、隊長は疲れたからといって遂にあわられず、正式なステージ写真がとれなかったりしたため、こわい近づきがたい感じもうけた。しかし日がたつにつれて次第に親しみを覚え、とりつきにくいがやはり音楽を愛するやさしい心の持ち主であると感じた。とくにソニーの工場を訪問し(別項に紹介)昼食をともにしていろいろお話しをうかがってからは打ちとける機会が多くなった。プラン隊長は日本のオーケストラを指揮する機会を持ちたいと云っておられたが、その時間のなかったのは残念そうであった。
隊員 先ず一人一人が立派な音楽家であり芸術家であったが、他の国のラッパ吹きと同様大変楽しく愉快な人達であった。隊員はみな胸に日本字で名前を書いたリボンを下げていたが、ソロ・クラリネットのマルセル・ジャン氏は「マダムジャン」と書いてもらって大喜びで、私達がからかうと「いやこれは日本語の冗談だ」と大変楽しそう。これが五十歳を越した人なのだから嬉しいもの。日本人のファンも楽屋やホテルに多勢集ったが英語を話す人が全体の五分の一程度なので会話が大変、それでもかたことのフランス語と英語で交歓していたが、どの隊員も面倒がらず、親切に相手になってくれ、中にはホテルでレッスンをうける学生もいた。どの隊員も気軽であったが、ワシントン空軍バンドのメンバーとは又ちがった真面目さ、きびしさを持っていたように感じた。やはり芸術家としての人間性がちがうように感ぜられたのは私一人ではあるまい。隊員の中の最年少者は三番アルト・サックスのブーン氏(二十三歳)だったが、ソニーのホールでサクソフォーン四重奏を演奏したとぎ、ソプラノ・サクソフォーンを受持つロンム氏が急病で出演できなかったので、急にソプラノ・サックスを吹き、それがよくできたと云って全隊員から祝福をうけ、ほっぺたをかるくたたかれたり、キッスをうげたり大変なさわぎで、隊員達が互いに若いプレーヤーを引きたてていいるのがよくみうけられた。英雄行進曲でトロンボーンのソロをしたのも若いボーフォール氏だった。隊員が情に厚いことをまざまざと見たのは羽田空港で、何人もの隊員が泪を流して、連盟関係者や、自衛隊員と握手し、ロビーの階段を下りて行ったときで、言葉は通じなくとも国境をこえて人々の情が通うさまは本当に美しいものであった。わずが二週間であったがその間つきそっていた通訳の人々もみな目頭をぬぐっていた。
日本の印象 誰もが「美しい良い国だまた来たい」と語り、音楽については「想像以上に程度が高いので驚ろいた。フランスではスクール・バンドはこんなに盛んではない」とびっくりしていたが、技術的た批評はあまり云わなかった。ホールについては高崎の音楽センターが最高で世界一流、次が上野の文化会館ホール三番目が大阪のフェスティバル・ホールで、京都の文化会館はあまり良くないとの評判だった。
(「バンドジャーナル」1962年1月号より)
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私は02年のデファイエ逝去の折にメールさせて頂いた者です。今回は「ギャルド初来日」で検索したところ、こちらに辿り着きました。
デファイエの消防法コンサート同様、84年のギャルドNHKホール公演も生で聴きました。あの「よかったぞ~」の声と共に…。
84ギャルドの際のBJに、大室先生が初来日の印象を書いておられましたが、「彼ら(ギャルドのサクソフォンセクション)の音は普通の音だった」というコメントが印象に残っています。
61ギャルドのサックスはヌオーもブーンも全員「ブヘー」(爆)だったのですね。デファイエ没後10年だった昨年、30年憧れていたブヘーのS-1(真鍮)を買いました。
今後も貴重な情報の発信をお続けください。
長文失礼致しました。
投稿: kurokawax | 2013.11.23 18:39