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2009.09.09

国立音大のアンサンブル

20090907国立音楽大学専攻生によるサクソフォーンアンサンブル2009(府中の森芸術劇場・ウィーンホール)

J.S.バッハ(北方寛丈編)/無伴奏パルティータ第3番より
F.クロンマー(新川奈津子編)/六重奏曲ハ短調
H.ヴィラ=ロボス(圓田勇一編)/ブラジル風バッハ第1番
挾間美帆/組曲 PATTERNS
D.ミヨー(柏原卓之編)/スカラムーシュ
 A.Sax独奏:下地啓二
G.ホルスト(柏原卓之編)/惑星~サクソフォンオーケストラによる空間音楽への試み
 指揮:雲井雅人

月曜日のこと。
いろいろすることがあったので、前日が発表会だったこともあり、「本番休暇」と称して1日出歩く。
おかげで6時半開演のこのコンサートが聴けた。
仕事の後だったらさすがに厳しいところだった。
とてもいい演奏会だった。学生の演奏会、という枠を軽く越えていたように思った。

澄んだきれいなハーモニーと、自発性と抑制のバランスのよくとれた音が聴けた。
クロンマーのような古典的な曲が、実に等身大の感受性をそなえた音楽として響いていたのはちょっと驚いたほどだし、ヴィラ=ロボスなんか、ここだけの話つい先日聴いたチェロ八重奏の原曲の演奏より余程いいと思ったくらいだ。
ヴィラ=ロボスは、人間の息づかいをとても感じる音楽なので、管楽器に合っているのかもしれない。
そしてまた、今日のようにほぼ満席のウィーンホールは、そんな音がまさに理想的に響く条件を持った場所だ。

前半の4~8重奏から、後半のラージアンサンブル、サクソフォンオーケストラの編成に向けて、サウンドとソノリテの拡大が有機的に繫がっていることが感じ取れる。
大編成で、こんなふうに言いたいことがちゃんと言える音がするというのは、やはりブラスオルケスター以来の国立音大の伝統がモノを言っているのかな、と感じた。
ちなみに私は、大学生の時から卒業して何年かくらいの頃、今と違って年間に聴きに行くコンサートの数なんか両手の指で足りていた時期、国立音大のブラスオルケスターの演奏会には毎年必ず行っていたものだ。
その頃の定例の会場が、当時住んでいた家の近所の五反田ゆうぽうとだったし、大学の吹研でお世話になったコーチの先生が国音を出たての若い方だったもので、親近感を持っていたというか。
四半世紀ほど前の話。ブラオケはやはりなんといっても大橋先生でしょう、という、私はそんな世代。

久々に聴いた下地先生のソロにも、感激。
勿論ヴィブラートとかは昔懐かしい感じなんだけど、出てくる音のそこここに、20世紀のヨーロッパという実感ある時代からの直接のリンクのような、誰の演奏にもない独特の、時の壁を超えた品格と輝きがある。
抑揚とコブシの(ニッポン的な)音楽ではなく、瞬発と軌跡(フレージング)で描かれた音楽だ。
この「スカラムーシュ」をいま聴けたことを、とても幸福に、また誇りに思う。

最後は「惑星」ほぼ全曲。
一部分カットはあったけれど、40分を超える長さと、打楽器群、ピアノ、オルガン、ひっきりなしに舞台と客席を行ったり来たりして曲によって場内のあちこちに現れるバンダ隊など、壮大な規模と発想で再現されていた。
さすがに長かった。
いや、しかしやっぱりこれ、一種の感動を持って聴き終えましたよ。
過剰な「量」があるレベルを超えると「質」に転換する、「臨界点」のようなものが存在するのかもしれない。
でも、そういうものは「いっちょやってやるぞ、」みたいな意気込みからは出来しない。
愚直なまでに楽譜と相対し、音楽の高みを一歩ずつ目指していくような姿勢によってしか生まれないのだろう。

「海王星」の最後はメンバーがどんどんステージを去って、最後は指揮者一人だけになってしまった。
ハイドンの「告別」ではコンマス一人が残るけれど、ここではそれすらもいない。演奏者の誰一人いない舞台で雲井さんはひとり振り続け、音は舞台裏の消えゆく女声合唱だけ。
「宇宙の果て」だな。秀逸な演出。


そういえば、下地先生のホームページというのがいつの間にか出来てますね。
WEBみたいな浮わついた世界とは絶対縁のない方だと思っていたけれど、どなたが作ったのだろうか。

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