コンクールの哲学
アンサンブルコンテストだの、コンクールだのと名のつくものに私が初めて出場したのは、1981年(大学2年生)のことだった。
曲はデュボワの1、4。銀賞。会場は江東公会堂(今は建て替わって「ティアラこうとう」という新しいホールになった)で、審査員は有賀誠門、松本秀喜、山本武雄という3人の先生だったことを覚えている。
あの有賀先生に「リズムが良いから音が活きていてきもちがいい」という講評と、満点に近い点数をいただき、それが嬉しさにその後四半世紀アンサンブルを続けて来れたと言っても過言ではない。
以後現在まで、大学卒業後3年ほどブランクがあった以外は、ほぼ毎年サクソフォン四重奏でコンテスト・コンクールへの出場を続けている。
吹奏楽コンクールだったらともかく、アンサンブルでそこまでキャリアの長い人間は極めて珍しいと思う。
コンクールは「勝つことが目的」、という言い方がある。
音楽のコンクールというものは、「審査員」という名のプロの「聴衆」を相手にどれだけ高い評価を得ることができるかを競う、一種の「ゲーム」なのだから、目的は「勝つ」こと、という考えはそれはそれで正しい。
音楽に勝ち・負けという要素が入ってくることに違和感を感じる人というのは当然いるだろうけれど、それは仕方がない、「ゲーム」なんだもの。
とは言っても、コンクールで本当に「勝つ」、ことは極めて難しい。
甲子園と同じ、予選から勝ち上がりのトーナメント戦である現行のコンクールでは、全国大会まで進んで1位でも獲らない限り、そこまでの過程のどこかで必ず負けることになるからだ。
トーナメント戦における開催試合数は、参加するプレイヤーの数-1に等しい、というよく知られた原則がある。
ひとつの試合で必ずひとりのプレイヤーが敗退し、最終的に勝者がひとりだけ決まることになる。
で、面倒なことに、コンクールというものには、その先の一生の糧になり得る教訓を得るのは「負けた」時だけだ、という隠れた真実もある。
負けた場合、なぜ負けたのか、という謙虚な考察を通してその後への向上と継続が見込める訳だけれど、「勝った」人間には、その時ひとときだけの栄光が与えられるのみである。
去年のアンサンブルコンクール本選の日の日記のコメントに、ロジャー・ボボ(世界的テューバ奏者)の言葉を引用したことがある。
「選手たちの能力は、競争相手によって高められる」のだ、と。
同じコンクールに何度も出場して、何度も優勝する人(団体)、というのは、そう考えると本当にすごいことだ。
自分自身を真のライバルとして戦い続けることができる、ということなんだから。
ワタシだって、ただ一度だけ「勝った」記憶はあるんですが…
1998年度の全日本アンサンブルコンテスト(福岡)。今は解散してしまったアンサンブルで、東関東代表として出場し、金賞。
たしかに良い思い出にはなったけれど、そこから何か現在につながるものを得たか、というと、正直言って「?」である。…
「勝つ」ことを目的としながら、しかも「負ける」ことがほぼ必然であり、なおかつ負けることによってしか教訓をもたらさないもの。
カミュの「シーシュポスの神話」を引き合いに出すまでもなく、人間の「運命」そのもの、ではないか。
頑張ろう。今年も。
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