2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
フォト
無料ブログはココログ

« 練習第二日 | トップページ | 【連載】マルセル・ミュールの生徒たち 23 »

2007.08.08

20年前の志賀高原

はじめて夏の志賀高原を訪れたのは、ちょうど20年前、1987年の夏のこと。
これまでのエントリ等でも何度か言及しているように、セルマージャパン主催のサクソフォン・キャンプに参加するためだった。

このときは、ちょうどキャンプ開始の前日に、翌年(1988年)夏の開催が決定していた「ワールド・サクソフォン・コングレス」の予行を兼ねて、川崎市の麻生市民館で日本サクソフォーン協会のサクソフォン・フェスティバルが執り行われていた。
このフェスティバルと翌日からのキャンプは、続けて両方とも参加する先生方や受講生が相当数(私自身も含め)いたので、夜9時のフェスティバル終演後、麻生から志賀高原に向けて夜行の貸切バスが走ったのだった。

バスの中では私は、当時カワイの講師だった旧知の円田先生と隣席同士で、深夜までずーーっとサックスの話ばかりしていたのを思い出す。
日本とフランスのサックスの音の違い。同じフランスでも、デファイエとロンデックスでは何が違うか。アンサンブルというものの考え方。私が持ってきたいくつかの海外のサクソフォン奏者や四重奏団のカセットテープを一緒に聴いてあーだこーだ言い合ったり、非常にプリミティヴでかつ実践的な話題の数々だった。
当時は今と違い、とにかく「生の」情報が少ない時代だったから(今のように、フランス帰りの若いプレイヤーがゴロゴロいる、などという状況は想像すらできなかった)、円田先生のような百戦錬磨のベテランの方の話というのは本当に貴重で興味深く、何時間喋っていても飽きることはなかった。
当時、私は25歳、円田先生は(おそらく)39歳。
あの貫祿のあった当時の円田先生だけど、今の自分より若かったんだ。…

志賀高原に到着したのは、明け方の午前4時。
結局、ほぼ一睡もせずに喋り続けていたような気がする。
そして、その日の午後から、怒濤のようなキャンプのカリキュラムが始まったのだった。…

私にとって、「師匠」と呼べる人物には、そのキャンプで出会った。
それまでにも、またその後も、何人かの先生方にレッスンを受けたり、お世話になってきたけれど、じゃあアンタは実際のところ誰の門下なんだ、と聞かれたら、迷わずその先生の名前を挙げる。
現在はヤマハを吹いておられる方だが、当時はバリバリのセルマー使いだった。
…そもそも、80年代の当時、国産の楽器を吹いている第一線のプロという方は皆無に等しかったのだが。

3日めの夜(最終夜)は、毎年恒例のことなのだが、セルマーキャンプの主(ヌシ)ことI沢さんの号令一下、部屋別対抗演芸大会(笑)というのが催される。
この年、なぜか私の部屋は、グランプリを受賞(笑)。
相部屋のメンバーには、当時昭和音大の1年生だったO森Y基くんも居た。座布団を使った一発芸の連続、というくだらない出し物で、I沢さんも「これがなんでグランプリなんだー」、と半分呆れていたけれど(^^;。
賞品に、小型の機械式メトロノーム(ウィットナーのスーパーミニ)を貰った。これは今でも使い続けている。


レッスンも受講生発表会もすべて終わった最終日の午前、全員で高原の中をハイキングに出た。
皆でリフトに乗って、東館山の山頂まで遊びに行ったのだった。
8月1日の写真に写っているリフトが、まさにそれだ。

リフトを降りて、山頂までの上り坂を、キャンプの最年長の講師、御歳77の大御所、阪口新(さかぐち・あらた)先生(日本のクラシカル・サクソフォンの開祖というべき方。こちらのエントリ参照)が、半世紀ぶん以上若い受講生たちの列に混じって、元気に歩いていく。
「阪口先生、大丈夫なんですか?」と別の先生に聞いたところ、
「いやあ、阪やんは僕らよりよっぽど頑丈だから、」とあっさり返されたのだった。


下地啓二野外音楽教室、と題して、下地先生と一緒にみんなで志賀の湿原の中を散歩しつつ、先生のありがたいお話を聞く、という不思議な会があったのは、もしかしたらこの翌年のことだったかもしれない。
足元の草むらで、バッタかイナゴのような虫がぴょーんと跳ねる度に、「おっ、このアタックがいいねぇー。サクソフォンはこういうふうに演奏したいものだねー」などと本気で感心してみせる下地先生に、半ば引きつつ(^^;も、強烈な印象を残したものだ。


20年前の志賀高原でのキャンプ、というと、そんなことばっかりが思い出される。
何の曲のレッスンを受けて、何と言われたか、なんてことのほうが、思い出すことは難しい。
でも、それでいいのだ。音楽というものはレッスンや練習だけで培われるものではなく、そういったさまざまな経験や見聞を含めた、人間性の総体なのだから。
たとえば、高原の山道を若い人たちに混じって元気よく歩く、阪口先生という偉大な人物(逝って既に10年、今の若い人たちにとっては、もはや歴史上の存在でしかないだろう)の後ろ姿を記憶に留めている、ということが、現在の自分自身という人間の幅の一部になっているのだと思う。


先日終わったK高の合宿も、生徒たちにとって、そういうものであってくれるといい。
もしもこの先何年か、あるいは何十年か経って、2007年夏の志賀高原のことを、そんなふうに覚えてくれていたとしたら、嬉しい。

« 練習第二日 | トップページ | 【連載】マルセル・ミュールの生徒たち 23 »

昔の話」カテゴリの記事

コメント

下地先生のお話、目に浮かぶようですねー(笑)

下地先生が仰るには、「作曲家の方々はこういう『自然』からインスピレーションを経て音楽を作っているのだから、われわれ演奏家は今度はそれを『自然』にお返ししなければいけない」、ということだそうです。
そのことを「本気」で、実践していらっしゃる。

この話は昔からいろいろな人にしているのですが、一番感心してくれたのは音楽関係の方ではなく、草木染めをやっている知人の方でした。
「その通りです、私も『自然』から色をいただいています」、と。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74078/16021108

この記事へのトラックバック一覧です: 20年前の志賀高原:

« 練習第二日 | トップページ | 【連載】マルセル・ミュールの生徒たち 23 »