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2007年7月

2007.07.31

ミューザ・新日本フィル

Festa Muza2007フェスタ・サマーミューザKAWASAKI 2007
新日本フィルハーモニー交響楽団

エルガー/チェロ協奏曲(Vc:ソル・ガベッタ)
ベートーヴェン/交響曲第4番
 指揮:クリスティアン・アルミンク

首都圏9オケ総出演、なかなか面白そうなお祭りなのに、この時期は忙しくてなかなか行けないフェスタ・サマーミューザ。
今年もちょっとだけ雰囲気を味わいに。
8時開演、休憩なしで9時15分には終わり(そのぶんチケットも安め)というのは、悪くない。みんなこれでいいのに、とすら思う。

チェロのねーちゃん(1981年アルゼンチン生まれ)、なかなか上手。こんなに音程の良いチェロは久しぶりに聴いた。
アンコールにヴァスクス「チェロのための本」より、とやら。ひゅるひゅる…という効果音に始まり、途中御詠歌のような歌も入る、不思議に幽玄な趣の無伴奏現代曲。これ、いつだったか誰かもアンコールで弾いてたな。
メインはベートーヴェンの4番。序奏はまるでフランス音楽のように繊細に始まったと思ったら、テンポが上がるといきなりドッカンな音が出てきた。ティンパニ等は少しピリオドぽい響きもしている。いかにも今風の演奏、ということで。
この曲を生で聴くのはものすごく珍しいことのような気がする。昨年大晦日の振るマラソンでは勿論聴いたけれど、それ以外と言ったらはたして…?
改めて聴いてみると、溌剌として機知に富んでいて、ベートーヴェン的な妙な重苦しさのない、実に良い曲だと思う。
どうしてこんなに稀にしか演奏されないのだろうか。

2007.07.30

プラネルのレッスン

午後2時頃から、雷鳴・豪雨。梅雨明けるかな?

発表会のための、プラネルのレッスンを受けてきました。
轟沈。
ひとりでさらっていてかろうじて音が並ぶというレベルでは、先生(というより、「聴く人」という存在)の目と耳に晒された瞬間にズダボロと化す、という見本のような状況に陥っておりました。ああああ。
これでレッスン時間が2時間くらいあれば、ある程度建て直すところまで行くことも可能だったのかもしれないが、今日は1時間で切られていたので、ちょっと後味の悪い終わり方になってしまった。
えーい。絶対挽回してやるぞ。

しかしこの「プレリュードとサルタレロ」という曲、予想以上の難物だ。
聴いていると難しそうに聞こえるのに、譜面を読んでみると意外と吹けそうに見えて、実際やってみるとやっぱり難しいぞ、という三重構造になっている。
さすが、パリ音楽院の卒業試験課題曲だったいうのはダテではない。参った。
…先生の吹いてくださるお手本演奏を傍で聴いている時だけは、ちょっとだけ幸せでしたが。

夕方から家の近所のスタジオを復習用に2時間取ってあったので、改めてゆっくりと、繰り返し練習。
あとは、地道にやるしかありません。

本番で実力が発揮できない、という言い方は、間違い。
「本番で発揮出来る力」のことを、実力というのだから。
練習で出来たことの50%しか本番で出来ないんだとしたら、本番で100%の実力を発揮したかったら、練習では200%の演奏が出来なければいけない、という、単純な話。

分かっちゃいるんですけどね…

2007.07.29

高校生たちと~夏本番へ

明けそうでなかなか明けない梅雨の末期の蒸し暑い好天の下、朝9時半から、まいど都立K高ウィンドアンサンブルの指導へ。
シリーズ「高校生たちと」、って感じで当ブログ上でもエントリが続いている。新しいカテゴリでも立てちゃおかな。

午前はパート練指導、午後は合奏。酷暑を覚悟していたが、珍しくも午前午後とも冷房のついた部屋だった。
合奏は、このたびK高トレーナーに正式就任した渡辺先生の指揮。今日もまた、すばらしい音楽性と洞察力と情熱と機知にみちた練習だった。「ボールを投げ終わった後では軌道修正はきかないだろ、」(だからちゃんと準備してから音を出せ)、なんていう言葉、名言だと思う(言われてみりゃ当り前のことなんだけど)。
生徒たちは、とても真面目で優秀なのだが、都立高校なもので基本的にのんびりしているので、この渡辺先生の情熱に100%はついて行けていないところもあるのが、実に惜しい。

しかし考えてみたら、ワタシゃこのK高ではトレーナーという立場で渡辺先生と同格なのである(!)。
空恐ろしいことだ。とくに今日など、気分としては合奏の後ろでたくさん勉強させていただいている聴講生のそれなんだけど。

8月1日から合宿(志賀高原)にもお邪魔させていただくことになった。
大好きな「夏」が今年もやってくる。「夏休み」と称して会社を大手を振って休んで、おもいっきり楽器を吹きに遠出できるというのは、この季節ならではの嬉しさだ。決して暑さが好きな訳ではないけれど。

かつて毎年夏、セルマージャパン主催のサクソフォンキャンプというのがあった。同時期の八ヶ岳山麓のヤマハのセミナーのほうに行った年もあったけれど、なんだかんだでのべ10年以上にわたって参加し続けていたものだ。
セルマーのキャンプはずっと越後湯沢での開催だったけれど、最初の5回くらいは志賀高原の一ノ瀬で、当時20代だった自分にとってはこちらのほうがずっと印象深い。
その頃の志賀高原で、S々木先生のクラスで個人レッスンを受けたことがある。ラクールの2巻から何曲かみていただいたのだが、とても誉めてくださって、その時に言われたものだ。「これからは、あなたが他の人を教えるということもしていってください。それが後に続く人のためになるし、何よりもあなた自身のためになります」と。
その頃は「エーッ、オレが人を教えるなんて」、と思ったものだったけれど、あれから17年経った今となっては、その通りに周囲の事情が推移していることを実感するものだ。
そして今、こんどは「教える立場」として、再び夏の志賀高原を訪れるということに、なにかとても運命的なものを感じている。…

合宿のしおり、というのを貰ったのだけど、いやー、なかなかのもんです。
手書き・わら半紙半折・ホッチキス止め、という体裁がまず懐かしいし(さすがにコピーだよね?ガリ版ではないと思う)、中身も感性がほとんど女子高だ。
「もちもの」のページで、楽譜とか着替えとか洗面用具とかいろいろ挙げたあとに

「最後に…
あなたの熱いPassion!! そしてLove(*´∀`*)」

なんてね。いいなあ(笑)。

持ち物は「愛」と「情熱」ですか。
よろしい、お望みどおり持参いたしましょう。

2007.07.27

夏の「惑星」

TokyoCityPhil_070726東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第210回定期演奏会(東京オペラシティコンサートホール)

R.シュトラウス/オーボエ協奏曲(Ob:広田智之)
ホルスト/組曲『惑星』~「冥王星」(コリン・マシューズ作曲)付き
 指揮:飯守泰次郎

今日も前半は間に合わず。大好きな曲だったのに。
最初から聴いていた連れは、「宮本さんのシュトラウスはピンク色だけど、広田さんはいぶし銀だ」などと、どっかで聞いたようなフレーズで感想を言っておりましたが。

後半は「惑星」。
ワタシ的に、なんとなくこの真夏の始まりの季節にふさわしい曲のような気がするのは、かつて高校生の時の部活で、ひと夏を費やして「木星」を練習した記憶があるから、かもしれない…

全く興味がなかったので聴いたことのなかった「冥王星」とやらを、初めて聴いたのだが…うむむむ、「蛇足」という言葉の生きた用例を見た気がしました(^^;
このコリン・マシューズという人がやはり編曲(オーケストレーション)した、ドビュッシーの前奏曲集のCDというのを聴いたことがあるのだが、なるほど共通性のある響きが聞こえていた。少なくともご自身の個性というか音色はお持ちの作曲家ではあるようだが。
そもそも私はこういう、有名で知名度のある曲の尻馬に乗って出てくるコバンザメのごとき音楽は、あまり好きではない。
この「冥王星」でとくに許せないのは、「海王星」(前の曲)から繋げるために、「海王星」の末尾に手を加えてしまっていることだ(女声コーラスだけのはずの終結部に、ブリッジ用の弦のトレモロが入っている)。どさくさにまぎれてテメエの曲を聞かせてしまうだけじゃ物足りないというのか。

「冥王星」はともかく、他の演奏はなかなかよございました。
久々に聴いた飯守=シティフィルだったが、やはりこの組み合わせはただごとではない。近代物を振るときの飯守さんには、丁寧でリリカルな格の正しい音というものがあって、この手の編成が大きくて色彩的な曲にはそれがとてもふさわしい。そういえば以前、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」にとても感心したこともあったな。
ベートーヴェンやブルックナーばかりではなく、飯守さんのこういうレパートリーももっと聴いてみたいものだ。

しかし、チラシの惹句の「大管弦楽による星占い」、ってのは、なんだ。

2007.07.26

30年の時を超えて

ココログのメンテナンスのため書けなかった、昨夜(24日)のこと。
もう遅いし、明日も忙しいので、簡単にしか書けないが。

高校時代の2コ先輩の、最近K高ウィンドアンサンブルの指導でお世話になっているken師、1コ先輩のYさん、そして5年先輩のIさん、という4人で、前の晩に急に話が持ち上がって同窓会をしてきた。

Iさんは私の高校の部活の(当時の)卒業生の中で唯一プロとして音楽の道に進み(ニューハードやシャープス&フラッツといったビッグバンドで活躍され、現在はフリーランサー)、その名前は以来30年間、私たちの間では伝説といっていい存在だった。
高校1年生のとき、合宿先の山中湖ではじめて聴いたIさんのトロンボーンの音の、雷にうたれたような衝撃。
この後、現在に至るさまざまな局面で、自分自身とあまりにも次元の違う「音楽」の存在に触れて茫然とさせられる、という経験を何度もしてきたけれど、私にとってこれはそんな中でも記憶にある限り一番最初の出来事だった。

高校卒業後も、OB同士が集まる度に、「Iさんどうしてるかなあ」という話をよくしていたものだが、それがなんと、K高、即ちken先輩の勤務校であり私も最近最近出入りするようになった高校の、卒業生の父親であり、その縁でK高のジャズ部(という部活があるのだ)のトレーナーも数年前からされていた、という事実が、つい最近になって判明したのである。
この事実が判ったときの驚きといったら…30年前、I先輩との出会いの時の衝撃に匹敵するかもしれない。
なんという恐るべき偶然。

そんなわけで、せっかくの機会、今度ぜひ皆で集まろうよ、という企てが、早速実現した、ということ。

当時、私は15歳で、I先輩は20とか21とか、そんなもんだった筈だが、不思議なもので、30年ぶりにこうやって顔を合わせてみると、ken師もYさんも含め、お互いその頃からなにひとつ変わっていないのだ。まるで、時間が逆戻りし、記憶の源泉が解き放たれ、お互いにとって最も実感のある輝かしい時代に再び戻ってきたかのように。
本当に不思議。
昔の思い出話やら、業界の裏話やら、K高ジャズ部の実は笑ってしまうほかないような活動実態の内実やら、笑い止まぬお喋りに興じた、のでありました。…

この話はきっと、まだ続くでしょう。

2007.07.22

渡辺氏現る

最近濃いエントリが続いていたので、今日は簡単に。
といっても、私個人的にはここ最近のさまざまな音楽的出来事のあった中でも、劣らぬほど濃かった1日だったんだけど。

アンサンブル練習日。
8月16日の本番のための合わせで、渡辺先生(新日本フィル)が練習場に登場。
ヴィヴァルディのC-Durコンチェルトを、1時間半ほどかけてリハーサル。

ピッコロ奏者として日本のプロ・フルーティストの中でも最高峰のひとりという方だけに(だからこそコングレスの日本代表にも選ばれている訳で)、とにかく言うことが半端じゃない。
きわめてプラクティカルで具体的な数々の指示と、至言というべき音楽の根底におよぶいくつもの示唆と(強弱は音の大小ではなく、発音のスピード感の違いで捉えろ、とか)、思わず笑ってしまうようなナイスな例え話(「カルピスの上澄みみたいなハーモニー」、とか)との交錯する時間だった。

私自身これまでに、様々な機会に、様々な先生方(指導者、指揮者)から、様々なスタイルのレッスンや合奏指導を受けてきたけれど、ここまで高度な要求とシンプルで的確な内容を備えたものというのはほとんど記憶がないほどだ。…

後半、渡辺先生が帰られた後は、通常に演奏会のための練習。
定期演奏会の1ヶ月半前にこんな大きな本番があるだけに、今年はなかなか、演奏会のための練習に落ち着いて集中して取り組みづらいけれど、今回の経験は長期的には必ずや私たちの活動にとってプラスになるものと信じたい。

Vacances
アンコールチラ見せ(^^;

オーティス・マーフィー マスタークラス

オーティス・マーフィー マスタークラス&ミニコンサート(アーティストサロンDolce)

・マスタークラス
深沢智美
P.M.デュボワ/協奏曲より 第1、2楽章
坂口大介
C.フランク/ヴァイオリンソナタより 第1、4楽章
 佐藤渉(通訳)

・ミニコンサート
A.パスクッリ(ケネス・チェ編)/蜜蜂
S.ラフマニノフ(マーフィー編)/ヴォカリーズ
J.S.バッハ/チェロ組曲第1番より プレリュード、クーラント、ジーグ
A.デザンクロ/プレリュード、カデンツァとフィナーレ
A.ハチャトゥリアン(ボーンカンプ編)/剣の舞
 ハルコ・マーフィー(Pf)

17日のコンチェルトに続いて、今日は新宿のドルチェ楽器にて、オーティス・マーフィー氏のマスタークラスを聴く。
キャパ100人ほどの小スペース(ほぼ満席)の2列めに陣取って、目の前1.5メートルほどの音を浴びることになった。
マーフィー氏の深みある音色、そしてその人間性がそのまま音になったような(彼のことを直接に知る人は皆、異口同音に「あんなにいい奴はいない」、と言うのだが、まさに)素晴らしい音楽性を、存分に楽しんだ。

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2007.07.21

ジェローム八変化

20070720ヌオヴォ・ヴィルトゥオーゾVol.3 声とサクソフォーン、ピアノ「息の横断」(大田区民ホール・アプリコ小ホール)

1.イエスパー・ノーディン/火から生まれる夢、インプロヴィゼーション(初演)
2.堰合聡/狂言(初演)
3.アンダーシュ・エリアソン/大地(1983、日本初演)
4.鈴木治行/編み目II(初演)
5.小櫻秀樹/むかしむかしあるところにジェロッキオがいました…(初演)
6.ジェラール・グリゼイ/アヌビスとヌト(1990、日本初演)
7.フィリップ・ルルー/青々とした緑に覆われたところ~ジェラール・グリゼイの追悼に(1999、日本初演)
8.鈴木純明/赤と青の対句(初演)
9.野平一郎/舵手の書~吉岡実の詩による(2001、日本初演)
 ジェローム・ララン(Sax)1.2.4.5.6.7.8.9.
 メニッシュ純子(Sp)4.7.9.
 杉崎幸恵(Pf)3.4.8.

ジェローム・ラランが今年も来日。
今日は以前にも書いたように催しが重なっていて最後まで悩んだけれど、結局こちらへ。
さる14日にもコンサートがあって、そちらに行ければそっちに行って今日はスピリタスへ、という選択もありだったが、行けなかったのだ。

それにしてもなんという出ずっぱり。1日に8曲も、どれもこれも世界初演とか日本初演ばっかり、共演相手もピアノ、人声、コンピュータ、無伴奏ソロと様々、楽器もソプラノからバスまで(!)、なんて、準備とリハーサルだけでどれだけの手間と混乱があったことだろうか。
それでもどの曲も、適当に熱演して終わり、なんてことでは一切なく、それぞれの曲にふさわしい集中と熱狂のもと披露されていたことは、驚くというか、呆れるほかない。

楽しみにしていたライヴエレクトロニクスの曲は、なんと1曲めだったので遅れて聴けず。2曲めはロビーで聴いて、3曲めのヤナーチェクが神経症に罹ったようなピアノ独奏曲から中に入る。なかなかの盛況。
舞台上を踊り回るようなパフォーマンス(5曲め。「ジェロッキオ」とは「ピノキオ」とジェロームの掛詞)も含む様々なスタイルの作品が演奏されたが、こうして聴き比べるとまさに野平さんの圧勝、という聴後感だった。なんというか、まるで森の中のケモノ道を抜けてひろびろとした高原に出たように、桁外れに明晰でシンプルな音楽だった。
同じように難解で前衛的な現代音楽の技法で書かれた曲なのに、作曲者のいいたいことがきっちり判るようにすっきりと見通し良く、理に適った音が並んでいるという点で、ここまではっきりと(おそらく誰の耳にもはっきりそう聞こえただろうと思う)差がついてしまうというのは、ちょっと信じがたいものがある。
「格が違う」、というのは、このことか。

そういえば昔(10年以上前)、斎藤貴志さんのリサイタルで、やはり日本人作曲家の現代音楽ばっかり何曲も演奏された最後に、野平さんの「アラベスク第3番」を聴いたときも、同じようなことを感じたっけ、ということを、終演後に久々に思い出した。

それ以外で印象に残ったものといったら、鈴木治行氏の作品かな(この人の曲は以前にも別の場所で聴いて感心した記憶がある)。西洋音楽の構築感とか流動感をいったん解体して、パロディチックに再構成してみせる手腕は、なかなかのものと思った。

ジェロームは相変わらず元気でした。これだけのことをやってのけた後だったら、もう少し疲れた顔してても良さそうなものなのに。
次回の来日は来年1月?とのこと。

2007.07.19

オーティス・マーフィー コンチェルト

saxophone and strings, 070717Saxophone & Strings(王子ホール

チャイコフスキー(R.ライカー編)/四季
グラズノフ/サクソフォン協奏曲*
ドビュッシー(R.ライカー編)/牧神の午後への前奏曲
イベール(R.ライカー編)/サクソフォン小協奏曲*
 オーティス・マーフィー(*Sax)
 ロバート・ライカー指揮 東京シンフォニア

オーティス・マーフィー。かのユージン・ルソー氏の後任として、若くして(1972年生まれ)米国の名門インディアナ大学のサクソフォン教授を務める名手である。
浜松国際管楽器アカデミーの講師のひとりとして、ここ最近毎年この時期に日本に来ているけれど、今回は見てのとおり、なんとグラズノフにイベールという私たちクラシックのサックス吹きにとっての二大レパートリーを一挙に演奏とのことで、楽しみにしていた。

楽しみにはしてたんだが、こういう日に限って仕事がトラブるもので、会場に着いたのは8時過ぎ。前半はまるまる聴けなかった(>_<)
それでも、後半だけでも聴けたのだから、良しとしよう。ちょっとほかでは聴けないようなイベールだった。高音から低音まで統一感にみちた、メロウな響き。人の「声」とか、「呼吸」とか、「人間性」とか、「思念」とか、そういうものを全て併せ呑んだ上に引き出されるような、大地にしっかりと根ざしたがごとき深い音色。
この人もまた、私の中での「アメリカの音楽家」というイメージの、最良の姿を具現しているように思える。
グラズノフ聴きたかったなあ。このぶんだとイベールよりもっと良さそうだ。
…それにしても、サックスを吹きまくる長身の黒人さんというのは、ビジュアル的にも実に絶妙に似合うことで。

バックは19人の弦楽オーケストラ(編成は5-5-4-3-2)。グラズノフ以外は全て、アルフレッド・リード作品のオーケストラ編曲でも知られる東京在住の指揮者、ロバート・ライカー氏自らの編曲による。
たいへん興味深い試みではあったが、やっぱりイベールのエネルギーに満ちた推進力とか、炸裂するような色彩感は、管楽器あってのものだと思ってしまうのは、自分が管楽器吹きだからかな。
「牧神」の弦楽アレンジは、これはなかなか似合っていたが、原曲のハープの真似をする部分で不自然さが露呈する。もしこの編成にハープ1台を加えるならば、オリジナルに遜色ない響きが作れるだろうに、と思った。
チャイコフスキーの「四季」(原曲はピアノ曲)にも、興味はあったのだが。…実はワタシ、この曲、サックスアンサンブルで演奏できないかと以前からひそかに考えていて、何かの参考になるかと思っていたんだけど、聴けず残念。

外は冷たい梅雨空。
王子ホールでのコンサート後の定番、ホール目の前の「影丸」でラーメンを食べて、帰宅。

2007.07.16

アイル・2007その2

Isle, 070715サクソフォン・ラージアンサンブル・アイル 第13回演奏会(イシモリホール)

J.リヴィエ/グラーヴェとプレスト
I.アルベニス/セビリヤ
スティーヴィー・ワンダー・セレクション
 以下 指揮:宮崎真一
J.オリヴァドーティ/ばらの謝肉祭
J.ブラームス/ハンガリー舞曲第1番、第13番、第18番、第5番
R.ロジャース/サウンド・オブ・ミュージック・メドレー

15日、日曜日のコンサート。
気がついたらすっかり「アイル」リピーターと化している自分がいます(笑)
心配された台風も思いっきりなんてことなく、普通に小雨っぽい天気の中、無事開催。

「アイル」というアンサンブルのありようは、一種の「実験」のように思える。
限定された素材を用いて、どこまで音楽的にまっとうなものを作り上げるか、という点で。
「アイル」も、また私たち「なめら~か」もそうであるように、サクソフォンのみによる大編成アンサンブルチームというのは、20世紀の終わりから21世紀初頭にかけて雨後の筍のごとく同時多発的にあちこちに立ち上がった訳だけれど(このへんの経緯についてはある種の社会学的考察が可能なのだが、それはまたの機会に)、たとえば極端な話、まだ音3つくらいしかまともに出せないような初心者の人でも戦力として受け入れ可能なのは、アイルだけだと思う。
「音3つしか出せない」ではなく、「3つの音が出せる」ということをそのメンバーの「個性」と考えて、そのような個性を含めて全体を構築していく、という。
言うのは簡単だけれど、これは実に手間と、何より「度胸」が要ることだと思いますよ。なにしろ、普通だったら「前提」であるところのものを、その「前提」を自ら構築するところから引き受けている訳だから。

前回の演奏会に賛助出演させていただいた時の日記に、「アイルさんの演奏というのは、決して技術的にエクセレントに仕上がっている訳ではないけれど、音楽的な辻褄がとても良く合っている。そして、各人の個性を殺していない」と書いたのだけれど、その内実というのは、そういうことだ。
今回もまた、そうだった。細かいことを言えば勿論いろいろあるけれど、それぞれの曲のキャラクターの作り方、就中ブラームスの(ハンガリー音楽ぽい)テンポ交替の堂に入り加減とか、大したもんだと思ったし。

中学高校の吹奏楽指導の現場などでは、逆に、各人の「個性」を均らすことによって、全体の、「音楽的な」ではなく「見かけ上の」辻褄を合わせる、というような場面によく遭遇する。困ったもんだが、私自身バンド指導の現場にいることが多くなった現状、他人事ではない。
この季節、「コンクール」に向けて、ひたすら合奏の精度を上げるための練習に毎日毎日邁進するブラバン中高生たち、特に私の教えている「真面目な」生徒たちに、是非一度「アイル」の演奏を聞かせてあげたいものだと思っている。
彼ら、彼女たちは、何を思うだろうか。
これは一種の「踏み絵」に近いものがあるな。
…とはいえ、現状もうこれ以上お客さんが呼べないので、今後は是非もう少し大きな会場で開催していただきたく(笑)

2007.07.15

都響・ドヴォルザーク

TMSO, 070714東京都交響楽団 東京芸術劇場シリーズVol.65
作曲家の肖像「ドヴォルジャーク」

弦楽セレナード
ヴァイオリン協奏曲(Vn:エリック・シューマン)
交響曲第7番
 指揮:レオシュ・スワロフスキー

台風が不穏に近づきつつある中、週末はやはり(楽器を担いだまま)あちこちに出歩くことになる。
知らないうちに靴底にひびが入っていて、足先がぐちょぐちょ。

昼間は東京芸術劇場にて、このコンサートを聴く(シリーズセット券を入手済)。
芸劇は駅から全く戸外を経由せずに辿り着けるところが、こういう天気の日には有難い。

ドヴォルザークの作品の中では、知名度的に「2番手」の曲目を集めたプログラムだったけれど(シンフォニーは8番や「新世界」でなく「7番」、チェロ協でなくVn、弦楽セレナードにしても、一般的にこの曲名だったらチャイコフスキーの方でしょう)、聴き終えてみるとそれぞれの曲の価値を改めて再認識させられる結果となった。良いことだ。
例えば交響曲の7番なんて、まるでブラームスみたいな部分が随所にあるけれど(曲の始まり方はシベリウスかと思ってしまうし、ブルックナーみたいに聞こえる瞬間もある)、こういう曲目の流れの中で聴くと、やはりドヴォルザークだな、という「共通性」のほうをより納得する。
そもそもこのシリーズ(一人の作曲家の個展)の意義というのは、そういうところにあるのではと思う。

演奏は、いつもの都響らしい、堅実なもの。
どれも普段そんなに聴き込んでいる曲ではないので、詳しい感想は書けないが。
Vnソリストは1982年生まれとのこと。ルックス的にも人気の出そうなタイプだ。テンポの緩い曲では、まあ、いろいろと思うところもあったけれど、テンポの速い終楽章になると、途端に水を得た魚のように見事に(というか、「嬉々として」)弾いてのけていた。若いなあ。
ちなみに今日は、ホルンのトップが新日フィルの吉永さん、トロンボーンのトップが日フィルの箱山さんというエキストラ布陣でした。このお二方が同じ舞台にいるというのは、なかなか珍しい光景かも。

2007.07.14

【連載】マルセル・ミュールの生徒たち 22

この連載の趣旨、見方については連載第1回のエントリをご参照ください。

1963-1964

ADAM, Noël
ARNOULT, Jean
BONNIN, Jean
BOUTIN, Pierre
DEMARLE, Guy
DEPUYDT, Jacques
DUCROCQ, Daniel
ELMORE, Vicki (U.S.)
ETHERIDGE, George (U.S.)
GAUDET, Daniel
JUILLOT, Michel
MAGNAC, Jean-Pierre
PODEVIN, Michel
PRATI, Hubert
TROUSSELET, Michel
VIATGE, Gilbert
MOORE, Robert (U.S.) Auditeur.

試験曲:Divertimento (Roger Boutry)

おお、ブートリーのディヴェルティメントだ!

この年の一等賞受賞者の中で日本で馴染み深いのは、なんといってもジャン=イヴ・フルモー四重奏団の創設メンバー(テナー)だったGuy Demarle氏でありましょう。
フルモー四重奏団では、他の3人は一世代若いデファイエ門下だった中にあって、ひとりだけ離れた最年長、飄々とした風情ながら、独特の存在感を漂わせた方だった。
もともと4人とも、パリ音楽院に入る前は、ルーベ(Roubaix)の音楽院で同門同士だったそうだ。

フルモー四重奏団は、1988年川崎でのワールド・サクソフォンコングレスのための初来日以来、しばらくは毎年のように日本に来て、夏の終わり頃に東京でリサイタルを開催し、八ヶ岳山麓でのヤマハ主催のサクソフォン・セミナーに4人まとめて講師として参加されたりしていた。
このセミナーには私自身も何度か参加し、一生忘れることのないだろう輝かしい夏の日々の記憶の1ページになっている。
八ヶ岳ではレッスンは原則的に聴講OKだったので、Demarle氏やPierric Leman氏(アルト)の自室でのレッスンもいくつか聴かせていただいたものだ(フルモー御大のレッスンは、なんとなく畏れ多くて足が向かなかった)。
Demarle氏のほのかに酒くさい(^^;部屋を、今でも思い出す。

1995年に惜しくも急逝され、フルモー四重奏団はメンバーを交代して現在に至っている。

Quatuor J-Y.Fourmeau, 941024

フルモー四重奏団、創設メンバーでの最後の日本公演のチラシ(1994年)。
このときのDemarle氏、たしかになんだか急に老け込んだような印象があったけれど、まさか最後の来日になろうとは。…

他の方では、Jean Arnoult氏が、ディジョン(Dijon)のコンセルヴァトワール教授だった(1970-2003)、という記述を発見。

2007.07.12

読響・展覧会の絵

YNSO, 070711読売日本交響楽団 東京芸術劇場名曲シリーズ#141

ウェーバー/「オベロン」序曲
ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番(Vn:川久保賜紀)
ムソルグスキー(ラヴェル編)/展覧会の絵
 指揮:パオロ・カリニャーニ

指揮者が病気のため代わったと思ったら、ソリスト(当初予定ジャニーヌ・ヤンセン)も病気・来日中止のため変更となっていた。…祟られてるなあ。
それでも、代役が川久保さんということで、結果的には良かったような。

指揮者は1961年生まれのイタリア人。既に読響に客演したことがあったようだ。
前半はややオーケストラ側のペースで引っ張られて行っていたが(コンマスは名匠デイヴィッド・ノーラン。さすがベテラン)、後半の「展覧会の絵」のキビキビとした運びは指揮者の意図だと思った。
3階、先日のフィルハーモニア管の時と近い席で聴いていたけれど、全く不足ない迫力とバランスで音が上がってくる。
大したもんじゃないですか。芸劇の天井桟敷までこの響きを上げられる東京のオーケストラというのは、あんまりないと思う。

終演は8時40分頃。結構早かった。
「展覧会の絵」がメインプロの演奏会というのは、経験的に早く終わることが多い。この曲自体が演奏時間30分ほどでさほど長くない上に、前半にあまり大曲が来ることもないせいか。
「古城」のサックスは誰だったのかな。読響だと平野さんが乗っていることが多いけれど、平野さんではないようだ(遠くてよく見えなかった)。やはりフランス仕込みな音色ながら、今の主流に比べたらメロウな感じの音で、ワタシ的には好ましい。
ちなみに「ビドロ」のソロは、2ndトロンボーンの方がロータリー式のテナーテューバに持ち替えて吹いていて、これまたなかなか良かった。最近は楽譜通りにテューバの人が吹いてしまうケースが多いようだけれど、無理はしないほうが良いんじゃないか、とつくづく思ったことだった(そもそも、ラヴェルが想定したフレンチ・テューバは、現在のいわゆるテューバとはほとんど別の楽器である)。

2007.07.11

「ジョン・バーンズ・チャンスの伝説」

John Barnes ChanceThe Legacy of John Barnes Chanceと題する、チャンス(1932-1972)の作品集のCDを入手(Albany)。

収録内容は、呪文と踊り、序奏とカプリッチョ(ピアノと24の管楽器のための)、交響曲第2番、ブルー・レイク序曲、エレジー、朝鮮民謡による変奏曲。Stephen K. Steele指揮イリノイ州立大学ウィンドシンフォニー。

最近かかわりの深い「朝鮮民謡」の音源をサーチしていた過程で、偶然見つけたものだった。
「朝鮮民謡」の演奏自体は、いかにもアメリカの大学バンドらしい開放的な明るさと大雑把さがあって、残念ながら既にあるフェネル=佼成wo.や佐渡裕=シエナwo.の録音を上回るほど素晴らしいという訳でもないが、チャンスの他の代表作「呪文と踊り」や「交響曲第2番」(←これはすごい傑作)が同梱された内容は、有難いものだ。

また、チャンス氏の詳しいバイオグラフィ、そして顔写真を(はじめて)見ることができたのは、嬉しい。その音楽の感じから、陰影を含んだ端正な顔だちの紳士を予想していたのだが、まさにイメージ通りの容貌だった。
ある作品に親しんだり譜読みをしていく上で、これはどんな顔をした人が書いた曲だろう、と想像することが(私の場合)よくある。作曲者の風貌とその音楽とは、結構密接な関連があるものだ。マーラーのあの神経質そうな顔、ブルックナーのどんくさい岩石頭、ラヴェルの短躯(あれは絶対、身体の大きな人が書く音楽ではない)、イベールの、まさにフランス紳士というカッコ良さ、デザンクロの伊達男っぷり、etc…。

【業務連絡】バイオグラフィの部分は、こんどコピーを持って行くので、英語の得意なそちらの生徒さん達にひとつ読ませてみてください>ken師。
秋山紀夫氏の曲目解説にある「朝鮮戦争に従軍」云々というのは、少々事実と異なるようだ。1958年から米陸軍第8音楽隊のメンバーとしてソウルに駐留していた、ということらしい。

2007.07.10

クラウス・ウールセン

Claus Olesen, 070708クラウス・ウールセン サクソフォーン・リサイタル(Hakuju Hall)

P.モーリス/プロヴァンスの風景*
イングバー・カルコフ/組曲(日本初演)†
C.サン=サーンス/ソナタop.166*
久田典子/ヴァルナの息(委嘱作品・初演)†*
ベント・ロレンツェン/ラウンド(日本初演)
A.ピアソラ/タンゴの歴史†
F.ボルン/カルメン幻想曲*
 Claus Olesen, Saxophone
 *富永綾(Pf)、†荘村清志(Gt)

週末に聴いたコンサートの一。
デンマークのサクソフォン奏者、クラウス・ウールセン氏のリサイタル。
これまでにも何度か来日して演奏しているし(かなり日本語も上達した様子)、一昨年にはジョットランディア・サクソフォンカルテットの一員として日本公演を聴いている。
一昨年の公演のレポートがこちらに残っているように、聴き慣れた日本やフランス、アメリカのサクソフォン奏者との感性の違いに当時は戸惑ったことが読み取れるけれど、今回は全くそういうことはなく、むしろ「こちら」こそがヨーロッパのクラシック音楽の本道なのではないか、とさえ思えたのだった。

音色は現代フランスのタイトな音とは一線を画し、柔らかく非常にエモーショナルによく歌うけれど、度を過ぎて崩れることはない。サン=サーンスのようなスタイルの曲では実にそのへんのバランスが良い。
音量のダイナミックレンジもたいへん大きい。身体自体が大きいせいか(最初ステージに出てきたとき、楽器がカーブドソプラノかと思ってしまった(^^;)、大音量の鳴らし方に無理がない。プロヴァンスの4楽章のクライマックスは、墓場に眠る死者がよみがえる場面なのだそうだが、何十回となく聴いている曲ではあるのに、これほどリアルに「甦った」演奏というのはいまだかつて聴いたことがないほどだ(4楽章の終わりで思わず客席から拍手が出た)。
かと思うと、委嘱初演曲での「響き」への鋭敏さ、原曲どおりギターと共演した(キーは原調のまま!)「タンゴの歴史」でのシンプルでコンパクトな音も、聴き応えがあったし。
私のような年代の聴き手にとって、響かせ方に親近感があるのは、使っている楽器のせいもあるかもしれない(アルトはマーク7、ソプラノはマーク6)。

一昨年の会場は、それこそ会議室みたいな全く響きのない場所だったので、こういう、会場のアコースティックをまるごと味方につけて楽器を鳴らすタイプの方は、真価は判らないだろう。
Hakujuホール、音響も良いし、水底にいるような幻想的な雰囲気は他の会場にはない独特のものだ。

お客さんはほぼ満席だったが、荘村さん目当てなのかなあ、普通のサクソフォンの演奏会のお客さんとは明らかに違う年配でハイソな雰囲気の方が多く、ワタシゃpoco浮いてました(^^;
拍手の出方とかも、なんかちょっと違うし。

2007.07.09

新ストラップ覚書

この土日にしたこと。
アンサンブルの練習をまる1日(午前カルテット、午後ラージ。カルテットはドビュッシー「ベルガマスク組曲」の初合わせ。これはマジで大変だ;)、その他に近所のスタジオを借りての個人練習を2コマ。その他、コンサートを聴いたのが2つ。呑み会が1回。今日は青梅まで父との面会。ふう。
濃い週末であった。どれをとっても各々1エントリ分の内容はあるので、一度には書けないけれど、気が向いたら順々に書いてみます。

今日は午前中、個人練習。
家はマンションの一室で、音出しは遠慮しながらになってしまうので、時々こうしてスタジオを借りている。
安いカラオケボックスとかが近所にあれば良いんだけど、近辺が結構静かな住宅地なもので、そういうものは無いのですよ。

先日購入したブレステイキングという新ストラップを使っているんだけど、もう普通の吊り下げ式ストラップには戻れないです。
身体の負担が軽いとかなんとかということより、音が伸びやかに楽に出ることが第一の長所だと思う。これを使った後に普通のストラップを使うと、まるで空気の出口をぎゅーと握りつぶしながら無理やり息を出して吹いているような気がしてくる。こんな苦しいカッコでオレは30年もサックス吹いてたのか、と。
姿勢の保持が楽だということも、勿論、利点である。教えている生徒には「楽器は立ったままさらえ、」と言いながらも、今までは自分では1コマ2時間の個人練習時間を立ちづくめというのは辛くてどうしようもなく、途中で座っていたものだったが、このストラップだと立ったまま2時間ぶっ通しでスケール練習をしていても大丈夫だ(重量を肩で支えることになるので、持病の肩凝りの解消には実のところあんまりならないんだけれど)。

欠点は長さの調整が面倒なことと(アジャスター3箇所を微調整しなきゃいけないので、急な持ち替えとかにはまず対応不可能。一度調整すればあとはかぶるだけで使えるけれど、着ている服の厚み次第で長さは変わりますからね)、楽器ケースの小物入れに入らないことか(私の場合。勿論、ケースによっては入るものもある)。
まあ、でも、それは仕方ないか。

まだアルトでしかちゃんと使っていないため、テナー、バリトンでの使用感は未確認。
ただし、とりあえずテナー、バリトンでも使えることは確認済。

速報
毎年の夏の風物詩でもある、「第20回サクソフォーン発表会」、今年は8月17日(金)の開催です(川口リリア・音楽ホール)。
今日の個人練習は、そこで演奏する曲の譜読みも兼ねていたのだ。
私にとっては、以前upしたG大本番の翌日ということになる(コメントでもこっそり触れてます)。
こんな大きな本番を2日連続で、というのは初めての経験なので、楽しみなような不安なような。
例年のように、特別ゲスト須川展也、入場無料、ということは確定だけれど、今年はみんな動き出しが鈍くて、いまだに誰が出るのかハッキリしていない(ということで開演時刻も未定)。最終的にはいつもどおりの感じになるんじゃないかしらん。

昨年(2006)の詳細はこちら、一昨年(2005)はこちら
委細後日。

2007.07.07

デファイエ関連サイト

本家掲示板のほうに、ダニエル・デファイエ氏の録音について扱ったウェブサイトを開設されたという方から投稿をいただきました。
最近は掲示板のアクセスが(私自身も含め(^^;)激減しているので、当ブログ上でも紹介させていただく次第。→こちら

新しい発見がたくさんありました。
デファイエのレコードについてのコメントは、たいへん共感できるものばかり。
ジョリヴェの「火の玉LP」(自作自演の「赤道コンチェルト」他)やマルケヴィチの「アルルの女」のように、持ってはいたけれどデファイエとは気がつかなかった録音もあるし、イトゥラルデと共演した晩年の録音に至っては存在すら知らなかった。

私自身、ああいうウェブサイトを運営していて、こんな特殊でマニアックなサイトを見てくれている人なんかいるんだろうか、という虚しい気分に時々落ち込むことがあるのだけれど、同志というものは居る所にはいらっしゃるものですね。
勇気づけられます。


デファイエはフラジオが苦手だったのか?…という話については、そんなことはなかったんじゃないかな、という気はしている。
80年代になってからパリに留学された方から聞いた話では、生徒にもフラジオの課題を与えていたそうだし、実際、L.ロベール「カダンス」のような、フラジオ無しでは演奏できない曲も晩年まで好んで演奏されていた訳だし。
あとは、フラジオとはどういう場面で使われるべきものであるか、という、ご本人の美意識の問題なのではあるまいかと。

2007.07.05

インバル&ザ・フィルハーモニア

The Philharmonia, 070704フィルハーモニア管弦楽団 東京公演(東京芸術劇場)

マーラー/交響曲第10番よりアダージョ
同 /交響曲第1番「巨人」
 指揮:エリアフ・インバル

今年ふたつめに聴く外来オーケストラ(前回は5月のフランス国立放送フィルでした)は、ロンドンの名門ザ・フィルハーモニア。
今回の指揮者はエリアフ・インバル。指揮者としては現存する世界最高のマーラーの権威。80年代にフランクフルト放送響で、90年代に都響で、それぞれ一生忘れないような壮絶なマーラー(都響では交響曲全曲)を聴かせてもらったものだ。
今回は東京芸術劇場の主催でマーラープロを4公演打つが、今日聴いたのはマーラーの最後と最初の交響曲によるプログラム。「巨人」はマーラーの中でも早くから親しまれていた、一番普通の交響曲だけれど、5番以降の交響曲の演奏機会が増えた現在では相対的に「本気の」演奏が聴ける機会が減っているので、楽しみにしていたところだった。

まるで室内楽のような繊細でクールな音楽づくりをするオーケストラだと思った。非常に巧いのに、あまり巧さをひけらかすことをしない。寄せてはかえすような遠近感というか立体感を備えた、玄人な響きが素晴らしい。
それほどたくさんのリハーサルを重ねているようには聞こえないのに、さすがロンドンのオーケストラはプロ中のプロで、指揮者の意図をちゃんと汲んだ音を出してくれる。随所に、インバルやベルティーニのような、ユダヤ系の「マーラー指揮者」しかしないような表現やイントネーションやテンポの動かし方がある。具体的にどこ、というのがうまく説明できないんだけれど。
前半、10番アダージョはそれでも「小手調べ」、という趣で、興が乗ったときの東京のオーケストラのほうがもっと「熱い」演奏をするかも、とも正直思ったが、休憩後の「巨人」では本領を発揮、いきなり金管とティンパニが炸裂してくれ、湿度のせいかいまひとつ鳴りの悪かった弦も、前半より格段に音色の深みを増して、やったー、そうこなくっちゃ、と嬉しくなってしまった。彼らの場合、音量は大きくても音色に余裕があってうるさくないので、まだまだ行ける、と思ってしまうし、実際最後の最後には本当にイッテくれちゃった。…さすが。
この曲は、まさに「青春の交響曲」だ(作曲当時マーラーは28歳だった)、ということを実感させてくれた。力があり余っているような演奏で聴いてこそ、だ。

全部で4公演もあるせいか、さすがに客席は超満員という訳にはいかなかったけれど、最近珍しいほどノイズも少なく、集中して聴いていたお客さん達だったと思う。

2007.07.04

週明けの新着

SheetMusicPlusに注文していた、「朝鮮民謡による変奏曲」(J.B.チャンス)のフルスコアが届いた。

Variations on A Korean Folk Song

今年からお邪魔するようになったK高ウィンドアンサンブルの、今年のコンクール自由曲。
「やる曲のスコアを自分で買うトレーナーというのも珍しい、」と顧問の先生には笑われたけれど(^^;、実はこれ、私としては大学3年のとき所属していた大学吹奏楽研の定演で「指揮者デビュー」した思い出の曲で、なんといっても歴史的な名曲だし、値段も$10.5だし(他に送料が$4.99。スコアがちゃんと別個に買えるところがさすがアメリカ)、コピーして製本する手間を考えたら安いものだ。そもそも自分で演奏する曲のスコアを買う、というのは私にとっては自然な行動様式でありまして。
…あっ、そうか、自分で演奏する訳じゃないんだった(^^;

打楽器群がスコアの真ん中の段にいるのが、なんだかオーケストラのスコアみたいだ(一番下段は金管群)。

知り合いに、朝鮮民謡やる、と言ったら「サックス吹き的にはあんまりおいしい曲じゃない」みたいな言われ方もしたけれど、ちょっとそれは違うんじゃないかとも思う(吹いていて「おいしい」、という捉え方には違和感を感じる)。その曲が、トータルとして手間と時間をかけて勉強し練習していくに値する音楽であるか、ということが重要ではないかと。
そういう意味では、これは間違いなく「傑作」であり、この世界の「古典」の名にふさわしい音楽だと思う。隙がなく均整のとれた構成といい、簡潔で効果的なオーケストレーションといい、何よりも元の主題となった歌(「アリラン」)に対する真正なる敬意の存在、という点で。

最後に挙げた点については、残念ながら最近のある種のバリエーションや編曲ものに関してまるで欠けている(ように感じられる)ことが往々にしてあって、苦々しく思っている。どこを探しても元の曲の尊厳などまるで見当たらないほど改変したあげくに「編曲です、」と言い張るとか。
これはまあ、作曲家(編曲者)としての一種の宣伝というか売名行為のようなものだろうと思っている。そりゃそうでしょう、聞いたこともない作曲家の名前があるよりも、とりあえずホルストやビゼーやチャイコフスキーやヴィヴァルディなんていう名前がセットでプログラムに載っているほうが、少なくとも注目はされるだろうから。
…オレは何を書いているんだ。閑話休題。


Valses週明けには荷物が届くことが多い。(どこの店や会社も、週末に発送業務が集中するせいか?)
こちらはAmazonから届いたCD。

レイナルド・アーン(1875-1947)/ワルツ集「ひもときし手紙のリボン」、歌曲「くちづけのゆえに」(Fontec
 アンリエット・ピュイグ=ロジェ&高野耀子(Pf)、
 河本喜介(Br)

最近、ティッサン=ヴァランタンやピュイグ=ロジェのCDについての2年前の投稿に関してコメントのやりとりをさせていただいた際、いろいろ調べごとをしていて見つけ、注文していたもの。

ピュイグ=ロジェ女史滞日中の、1983年の録音。
リンク先の投稿で挙げたドビュッシーとフォーレのCDと、同じ音がする。
音色が同じ、というより、喋り方(音楽的な)、というか、響きのイントネーションが同じなのだ。
曲そのものはサロン風の小品集で、シャブリエのように勢いよいところもあり、かと思うとプーランクやサティみたいでもあり、といってもシャブリエほど明るくはなく物憂げでシャンソンチックな、要するになかなか魅力的な音楽。

ジャケットには、夢見がちに上方を見ながらピアノを弾く、コクトーの筆によるアーンの肖像画。
この、人生投げてるような雰囲気そのままの音楽だと思った。

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