【連載】マルセル・ミュールの生徒たち 18
この連載の趣旨、見方については連載第1回のエントリをご参照ください。
いよいよ60年代に突入。佳境に入ってきました。
1959-1960
BEAUFRETON, Bernard
BEUN, André
BICHON, Serge
BOURQUE, Pierre (Canada)
CLAUZEL, Claude
DECUGIS, Claude
FAURE, André
GALLET, François
LAMOUREUX, Jean
MIQUEU, Jacques
ROTH, Iwan (Suisse)
SEFFER, Joseph (Hongrie)
TANGUY, Claude
THIBAUT, Joël
VANÇON, Pierre
VANOVERBERGHE, René
試験曲:Concertino (Pierre Hasquenoph)
André BEUN(アンドレ・ブーン、1937.2.19-)は、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団のメンバー(ミシェル・ヌオーの後任の首席奏者)としてたいへん有名。ヌオーがソプラノを吹いたギャルド四重奏団のレコードにアルトで参加している他、のちに自らパリ・サクソフォン五重奏団(QSP)を主宰し、何枚かのCDを残している(1987年のギャルド来日時に、QSPの単独リサイタルが神奈川県立音楽堂で開かれているのだが、聴きに行くことができなかったことを大変後悔している)。
ブートリーのディヴェルティメント、ゴトコフスキーのVariations pathétiqueをそれぞれ作曲者のピアノで演奏したレコード、というのもよく聴いたものだ。
その録音を含むいくつかの音源が、「Saxophonie」と題するCD(Corelia)で復刻されている。
1961年、ギャルドの伝説の初来日公演に最若手の隊員として同行したのに始まり、1991年の公演まで都合4回、ギャルドのメンバーとして来日した。
最後の来日時の演奏会のアンコールで、サクソフォンセクションの最前列のブーン氏が突然立ち上がってガーシュウィンのナンバーを独奏したことは、強く印象に残っている。
1961年の来日時に撮影されたポートレイト。(Thunder所蔵)
同じく1961年の来日時に、朝日講堂で開催された公開マスタークラスの風景。
受講生(左)は、当時東京藝術大学3年生だった大室勇一氏である。(!!)
(出典:バンドジャーナル昭和37年1月号)
…
Serge BICHON(セルジュ・ビション)は、ふたつ前の連載回でコメントをいただいたとおり、リヨン音楽院でクロード・ドラングル(のちにパリ音楽院に進んでデファイエに師事、現パリ音楽院教授)ほか多くの門下生(日本人を含む)を育てた名物教授だった方。
1986年、息子のフランクを社長として、BG Franceを設立、自らはアドバイザーとして製品開発に携わる。BGのリガチャーやアクセサリーにはお世話になっている方も多いことでしょう(私もそうです)。
ビション氏はまた、リヨンの門下生と共にEnsemble de Saxophones de Lyonを結成し、数枚のCDを録音している。
I.ゴトコフスキー、R.ロベール、G.ガスティネル、A.ティスネの作品所収(REM/311182)
ここで聴ける音は、ヴィブラート控えめで音はまっすぐ伸ばし、ミュールやデファイエのような(オーケストラで言えばクリュイタンス指揮の音楽のような)起伏の大きなスタイルとはかなり異なる、「クール」で精緻な演奏で、初めて聴いた当時はかなり違和感を持ったものだったが、時が経って今となってみると、現在のフランスでスタンダードとされるスタイルは明らかにこれの延長線上にあることが判る。
CDの演奏メンバー表はこちら(いつも重宝させていただいているmckenさんのサイト)にupされているけれど、見てみるとビション自身の後任(リヨン音楽院・現教授)Jean-Denis Michatをはじめ、Sylvain Malézieux、Fabrizio Mancuso(共にハバネラQ)、Laurent Blanchard、Guillaume Bourgogneなど、のちにパリ音楽院を経て現在のフランス・サクソフォン界の第一線で活躍することになる方々の名前が並んでいて、壮観。
リヨン(ビション)-パリ(ドラングル)というラインは、サクソフォンのフレンチ・スタイルの変遷を考える上で、鍵となりそうな存在だと思う。
Jean LAMOUREUXについては、検索してみるとラムルー管弦楽団に関する記述が山のように引っかかってくるため、探しきれなかった。
最近のコメント